今こそ聴きたい喫茶ロック名曲選〜現役DJが選ぶpure literature’s music(純文学ロック) Vol.2

今こそ聴きたい喫茶ロック名曲選〜現役DJが選ぶpure literature’s music(純文学ロック) Vol.2

 

このシリーズ、Vol.2にして、すでにカルトに突入します。

 

 

 ほしのでんせつ 金延幸子 1972

とはいえ、またもや、金延幸子です。

 

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金延幸子についての有名な逸話としては、オザケンのコンサート開演前のBGMとして流れていた、というものがあります。

金延幸子の「み空」は、90年代の渋谷系、レアグルーヴ、はっぴいえんどの文脈で再発見され、フリーボのような隔世遺伝グループが出てきたりもしました。

金延幸子自身がソロアルバム制作後、たまたまライブを見にきていたアメリカの音楽評論家ポール・ウイリアムスと知り合って、結婚、渡米してしまい、ということで、ますますこの「み空」の伝説度が高くなった、ということもあります。

けれど、やはり、楽曲自体の魅力、ということでしょう。

1990年代からたびたび再発され、また、海外での人気も高い作品です。

金延幸子は、1960年代後半から、五つの赤い風船のギタリストだった中川イサト、のちに名アレンジャー、プロデューサーとなる瀬尾一三、そしてブルースハープの第一人者、松田幸一、と組んで、「秘密結社〇〇団」さらには「愚」名義で、URCからシングルを出しています。

 

「ほしのでんせつ」は、彼女のソロ唯一シングル「時にまかせて」のB面曲です。

今回は、最近発売された「URC50周年アニバーサリー」シリーズ中の「時にまかせてー金延幸子レア・トラックスー」収録ヴァージョンについて触れたいと思います。

ところで、この「URC50周年アニバーサリー」シリーズ、なかなか魅力的な作品が、今後、発売予定です。

 

 

CDライナーに、音楽評論家、田家秀樹が論稿を寄せています。

 

URCは日本で最初に誕生したインディーズのレコード会社である。

“UNDERGROUND RECORD CLUB”(アングラレコードクラブ)

が正式名称だ。

発足は69年2月。そもそもは68年2月に出る予定だったザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」が政治的な理由で発売中止になったことが発端だった。

自分たちの歌いたい歌がメジャーなレコード会社で出せないなら自分たちで出そう。第一回の配布シングルは、アマチュア時代のフォーク・クルセダーズのメンバーと作詞者の松山猛で組んだフォーク・グループ、ミューテーション・ファクトリーの「イムジン河」。メジャーで出せなかった曲だ。ディレクターはザ・フォーク・クルセダーズの一員、北山修だった。

当初は会員制の自主販売組織として始まったものの入会希望者が多すぎて69年の8月から市販するようになった。流通を通さずに各レコード店や楽器店約130店と直接販売契約を結ぶ。まさにインディーズの原型である。

そこから70年代半ばに至る約7年。“商業ベースにのらない歌”は、どれも「平成」の“商業音楽”全盛の中で育った聴き手には信じられないものばかりだろう。

“商業ベースにのせない”ということは何を歌ってもいいということだ。規制も制約もない。プロもアマもない。まだ「シンガーソングライター」という言葉すらない。その人が思ったことを思いつくままに歌う。

“ それは「自由の歌」でもあった。 ”

出典;【今、なぜ「URC」なのか text by 田家秀樹】

 

そういうことなのです。

こうした時代が、かつての日本、50年前の日本にあり、そこからはっぴいえんどが出てきて、金延幸子が出てきた、ということです。

とはいえ、田家さんも書いているとおり、誰もが20代前半、さらには、売れるとか、売れないとか、そうしたことはまったく念頭になく、ただただ、やりたい音楽、まだ見ぬ音楽を創り出したいという、ただそれだけの想いだった、ということだと思います。

細野晴臣は当時の状況をこのように話しています。

 

作品が売れてお金が入るというのは、僕にとっては現実感がないんです。最初から考えなかったです。はっぴいえんどのときもビジネスの「ビ」もなかったですから。

出典;「細野晴臣インタビュー THE ENDLESS TALKING」細野晴臣・北中正和 著 筑摩書房1992

 

ということで、金延幸子に戻ります。

「ほしのでんせつ」のライブヴァージョン、とにかく、モダンです。

ライナーには、1970年4月12日、東京、文教公会堂でひらかれた「ロック反乱祭」のステージでの演奏とあります。

たぶん、金延幸子、ボーカルとアコギ、中川イサト、アコースティックギター、松田幸一、アコースティックベース、そしてプラス、ドラム、という感じでしょう。

同じ日のライブからは、「あかりが消えたら」のライブヴァージョンも収められています。こちらも、2020年の耳で聴くと、とてもモダンで素晴らしい演奏です。ボサノバの影響もありつつ、フリーフォークで、とにかく永遠に聴いていたい音楽です。

 

面白いのは、演奏後、同じステージで「監獄ロック」を披露した「シューベルツ」のおちゆうじが、ちょっと挑戦的に、こんなふうに絡んでくるところです。

 

おち「あのねえ、あの、今、生ギターでやってたけど、エレキももちろん使ってるんですね」

中川「そうですね、たまに使ってますね」

「どっちがどんな感じ? どっちが好きとか」

「うーん、今のところ、生ギターでやる形が好きかな」

「うーん」

「まあ、(生ギターで)とことんやってみて、いくとこまでいったら、また違う感じになるかも」

「うーん、最初、僕がロックンロールを、プレスリーが歌ったやつをやったわけですよ、やっぱりああいうやつが本当のロックだと思うんですけど、今のあれ(愚の演奏)は、やっぱ、ロックになるんですか?」

「今のは、ボサノバ的な・・・」

「ロックとは言えないでしょうね。今日はロック反乱祭ですよ」

「あー、そうですか」

「(今の演奏)ロックですかね? ま、とにかく、次ぐらいにロックが出てくるんでしょうね、おそらく」

 

 

このやりとりは、当時の雰囲気をとてもよくあらわしていて、すごく面白いのですが、だから、敢えて、選者の田家秀樹もここを収録したのでしょうが、

2020年の今、すでにロックという言葉は、死語です。

ロックか否か、ということを問うことさえ、滑稽を通り越して、イミフです。

けれども50年前の若者にとっては、ことにミュージシャンにとっては、ロックか、ロックでないか、ということは、自身のレーゾンデートルに関わる重大事だったのです。

はっぴいえんどと内田裕也の日本語ロック論争もそうでしょう。

みんな、自分たちの音楽に、どう落とし前をつけようか、と、真剣だったわけです。

ですから、今の目線で見ると、おちゆうじの挑戦的な問いかけは滑稽にさえ見えるのですが、そして中川らが当時、ボサノバでロック反乱祭に出たこと、と、プレスリーの監獄ロックをやったおちの、どちらが果たしてロックだったか、という問いにも波及するのですが、

そうしたことを踏まえても、なお、

中川も金延も、松田も、そしておちも、そして聴衆も、誰もが、まだ見ぬ日本の音楽を、自分たちの音楽を、真剣に探し求めていた当時に、輝く未来を、幸せ、をすごく感じてしまうのです。

 

さて、この「ほしのでんせつ」ライブヴァージョン、

もちろん、しっかり聴き込んでいくと、まあ、ペンタングル、ブリティッシュトラッドの影響を見ることができますし、金延幸子のボーカルも初々しいながらも、やや不安定ですが、そんなことは、些事でしかありません。

とにかく、まだ見ぬ日本語の音楽を造りたい、その想いだけが純粋にそこにあり、だからこそ、この曲に限らず、URCの楽曲は、どれもとても清々しく、酸化することなく、もちろん、陳腐化することもなく、時代を超えて人々を魅了し続けているのです。

 


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デビッド&ミッシェル 菩提樹の丘 1975

 

 

いよいよ若干、カルトに行きます。

 

喫茶ロックには、大きく分類して、フリーフォーク、アングラフォーク、純文学系と、ソフトロック、エクスポ70、村井邦彦系がありますが、この「菩提樹の丘」は、後者になります。

このユニットは、兄妹デュオで、お父さんは、あの、ジェリー伊藤です。

結局、このユニットは、このシングルの他に、荒井由実提供の「いま何時?」しか、ディスコグラフィーはないと思います。

ということで、「菩提樹の丘」です。

作曲は村井邦彦。

とにかく、ちょっと不安定な、思春期特有の中性的なボーカルにまずやられます。

さらには、軽やかに跳ねる編曲、旋律、

もう、甘酸っぱさ100%です。

名曲です。

ちなみに、ジャケットも素晴らしいです。

さらに、B面の「そよ風の自転車」も甲乙つけがたい名曲です。

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誰かが何処かで笛を吹く 西玲子 1972

かつてステージ101という番組がありました。1970年1月に始まり、1974年まで続いた音楽番組です。
チャンネルはNHK。
当初は土曜日の夜8時から9時という、超ゴールデンタイムに放送されていました。
音楽総監督は、中村八大、和田昭治、さらに東海林修、宮川泰と続きます。
このステージ101の特異なところは、普通の流行歌は流さずに、国内外の良質な音楽、スタッフの作った自作曲を、自前の音楽集団によって歌わせ、演奏させる、という点でした。
その自前の音楽集団の名前が、「ヤング101」。
同じユニホームを着て、歌と踊りと演奏を披露する集団でした。関東一円から集められた才能のある若者たちが約1年の厳しいレッスンを受けて、この番組に臨んだのです。
さらには番組の爆発的大ヒットによって、全国規模のオーディションが何度か行われ、才能豊かな若者がヤング101に集ってきたのです。
今でいえば、NHK版AKBというか、昭和モーニング娘。というか、けれども、もっと音楽的であり、もっと実験的であり、もっと自律的であった、そんな集団だったように感じます。
このヤング101から巣立った音楽家は数知れません。
樋口康雄(ピコ)
惣領泰則
惣領知子
太田裕美
上條恒彦
小林啓子
田中星児
谷山浩子
串田アキラ
クマ原田
若子内悦郎
そして、西玲子。
ヤング101の楽曲で今に残る一番有名なものは、シングアウトの「涙をこえて」でしょうか。
ある種、きわめてNHKらしい健全さと、純白さと、未来への限りない希望、そして少しばかり高尚な音楽センス。
それらが、このヤング101関連の楽曲の持つ、共通のテイストに感じます。
それらのテイストは 東海林修、村井邦彦のソフトロック志向とも一致しています。
ですから、101に直接関わらずとも、たとえば、トアエモアや赤い鳥などは、同様のテイストを持つ同時代アーティストでした。
ということで、前置きが長くなりましたが、西玲子です。
彼女は、ヤング101の中でもフロントとして活躍したシンガーです。いわば、AKBでいうセンター的役割を担っていたヒトです。
その彼女が1972年にソロで発売したデビューシングル、「雨上がりの鎮守様」のB面曲が、この「誰かが何処かで笛を吹く」です。
作曲、編曲共に東海林修。
まさに東海林修ワールド全開のソフロ名曲です。
イントロからすでにA&M系マナーに則っています。
誰かが何処かで笛を吹く。。。
若干オカルティックな歌詞ですが、まったくそんなことを感じさせず、ただただ気持ちよく、音が優雅に紡がれていきます。
ところで、ステージ101が始まった1970年は、大阪国際万国博覧会が開かれた年でした。そして冬季オリンピック札幌大会が開かれる2年前でもありました。
全共闘運動の終わり。
昭和元禄。
高度経済成長。
今思えば、このステージ101、そしてヤング101が行おうとしていたこと、それもまた、正真正銘のロックだったのかも知れません。

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