風街についての考察4回目です。
風街をあつめて(3)で、風街を可視化しました。
1950年代の南青山です。
もう一度、写真を載せます。
この写真は、国土地理院が公開している1945年〜1950年の南青山〜西麻布の航空写真です。
真ん中は青山霊園です。
赤丸は松本隆生家です。
多分、大蔵官僚の官舎ではなかったか、と推察しています。
拡大するとこうなります。
赤丸が松本隆生家です。
上の道路は246。
中央上には外苑。銀杏並木。
青山霊園の上にある学校は、青山小学校です。
現在、外苑西通りとなっているところには、細い道があります。
風街は、この写真に写っているエリアの左半分なのだと思います。
赤坂青山南町4丁目、5丁目あたり。
ところで、昔の町名は、どれも風情がありますね。
そう。
ここが風街なのです。
松本隆の「街」だったのです。
「世界のすべて」だったのです。
「街」は子供時代のぼくにとって、世界と同じ広さをもっていた。
本屋とおもちゃ屋と駄菓子屋を覗くだけで、ぼくの欲しい〈もの〉は全てそろっていた。
どんなに複雑な裏道でも自分の掌のなかに在るのも同じだった。
ロー石を片手に思うがままに街路を飾れたし、
〈街〉はいつだってそれを優しく受け止めてくれたような気がする。
ただし、風街は、もっと曖昧模糊を含んでいます。
子供時代、隣町に行くと感じた、あの違和感です。
それ込みでの風街なのです。
風街は、単なる思い出の街だけではないのです。
自分が全知全能で采配できるエリアだけではなく、
何か、異質で、
何か、不思議で、
何か、いびつで、
摩訶不思議な隣町、つまり外界をも含んでいるからこそ、風街は、圧倒的に魅力的なのです。
それを含んでいるからこそ、
どこにでもある、どこにもない街に、だから風街は、なるのです。
そして松本隆にとっての隣町は、「霞町」でした。
「街」は見えない境界線だった。
ぼくは地図なんぞ信じはしなかったが、町名が変わる地点ではひどく敏感になった。
その先に外界があったからだ。
それは友だちのいない街、屈曲した迷路と袋小路の世界だった。
地形で見ると、青山は台地です。
霞町は谷です。
幼い松本隆は台地から坂を降りていった先にある隣町、「霞町」に、外界を見たのです。
ちなみに当時の行政区分を図で表すとこうなります。
スカイブルーが麻布霞町です。
南青山から坂を下って、
一瞬、薄紫の「麻布笄町」に入りますが、
坂の下、つまり、谷底が、「麻布霞町」です。
谷を降りきると、六本木通りとぶつかります。
今でいう西麻布四丁目霞町交差点です。
もう一度整理します。
松本隆の街、「青山南町」から見ると、坂の途中が一瞬、笄町になり、そして谷底、崖の下に霞町が広がります。
谷ですよ。
崖の下ですよ。
青山霊園の崖の下。
そこが「麻布霞町」なのです。
当時の写真があります。
坂の途中、麻布笄町の写真です。
1960年頃の写真です。
うっそ!
という声が聞こえてきそうですが、本当です。
今の西麻布です。
後ろの樹木は青山墓地でしょうか。
60年前は、青山も西麻布も、まだまだ、こんな感じだったのです。
彼の記憶の風街は、そうした異界も含めて、とても魅力的だったようです。
松本隆は、外苑西通りの立ち退き後、その霞町に住むことになります。
中学以降は自分の住所になる場所について、彼はこう書きます。
隣の町に足を踏み入れると言う行為は冒険心を刺激したし、危険を少なからず含むものだった。
そこには古い蔦に壁面を覆われた何かの研究所が聳えていたし、
墓地の石垣伝いの道を辿ってゆくと貧しいバラック建ての街を通り、
そこではもはや〈街の臭い〉さえもが違ってしまうのだ。
この〈街の臭い〉というところに、激しく同意します。
荒井由実の「ミスリム」A面1曲目、「生まれた街で」にこんな歌詞があります。
生まれた街の匂い
やっと気づいた
そういうことです。
町には、それぞれ〈匂い〉があるのです。
それは不思議と、「街」ではなく、「町」です。
荒井由実も、松本隆も、子供時代、すでに、それに気づいていたのです。
行政区分の「町」の境界を一歩越えると、不思議と、とたんに変わる、風に含まれる、それぞれの町独特の〈匂い〉。
ですから、青山南町3丁目から、坂道を下っていき、麻布霞町になったとたん、
そこは外界だったのです。
異界だったのです。
幼い松本隆にとって。
ぼくが好んで訪れた異邦の街は、霞町という不気味な名の街で、そこには汚い映画館があり、「鉄の巨人」とか、「裸体殺人事件」などの文字のはいったけばけばしい原色で描かれている看板の前で立ちすくんだまま時を過したものだった。
中学時代に都市計画とやらで生家がアスファルト道路の下に塗りこめられてしまうと、ぼくはその異邦の街に引越してきた。
ちなみにこちらの写真は、1970年頃の青山の航空写真です。
赤丸は松本隆生家あたりです。
この頃、彼らは「風街ろまん」を作っていたのでしょう。