松本隆、5回目です。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

松本隆の項は、

前回で終わったつもりでしたが、

確かに語りたいことは、ほぼ、終わったのですが、

 

ですから今回は、蛇足、というか、スピンアウトというか、

 

そんな内容です。

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中沢新一の「アースダイバー」です。

この本です。

 

 

 

東京都民なら一家に一冊ぐらいの書でしょう。

 

というのは冗談ですが、

とにかくおもしろいです。

簡単にいえば、日々、変容していく東京の、その薄皮の下にはどんな地形が埋まっていて、それは何を語っているかを解読していく本です。

 

初版は2005年です。

上記の本は、初版を増補したもので、2019年に上梓されています。

 

 

東京の表皮は日々変わっていますが、一皮捲ると、そこには、縄文から連綿と繋がっている、人々の無意識に訴える「何か」があって、

それこそが、

現代東京人の、その行動なり、その活動なりに、すごく大きな影響を及ぼしている、

そんな本です。

 

天下の中沢先生が、そんなオカルト本を、

という声も聞こえてきそうですが、

天下の中沢先生だからこそ、

一見オカルトのようで、けれど、人々をおおいに納得させうる本になっているのです。

 

これがアースダイバー必携の東京地図です。

簡単に説明しますと、

上の青い部分は、沖積低地を、

クリームイエローの部分は洪積台地を表しています。

洪積台地とは、更新世(約2百万年前から約1万年前まで)に堆積作用によって形成された平坦地が、隆起してできた地形で、

現在の沖積平野より一段と高いところの平地です。

沖積低地とは、最終氷期の最大海面低下期(およそ1〜2万年前)以後に堆積した、現在の海面や河床からの高さがあまり高くない土地のことです。

簡単にいうなら、上の地図の青い部分はかつては海(川)ということです。

中沢新一は、東京フィヨルドと称しています。

 

確かにフィヨルドっぽいです。

 

この地図を眺めているだけで、日が暮れそうな、そんなとても興味深い地図ですが、

つまり、現代東京23区の半分は、かつては海だった、ということになります。

 

こちらは国土地理院の地図です。

 

この地図では黄色の部分が、かつての陸地であり、緑、青の部分が、かつての海(または入江・川)ということになります。

 

 

赤丸の部分は青山墓地のあたりです。

 

 

さて。

この「アースダイバー」において、

中沢新一が何度も言及していることは、

 

古代より、縄文の時より、

人々が、特に重要に思っていたところは、

そのほぼ全てが、海と陸の境目だった、

 

ということです。

 

大地が一気に降下して、海に飲み込まれていく、その境界、

つまり岬(みさき)が、

古代からずっと、

人々にとって、

神聖な場所だった、と。

そこは、

死と生の境目の場所だった、と。

 

そういうことです。

 

今日の東京のランドマークの多くは、古代に「サッ」と呼ばれた場所につくられている。

「サッ」ということばは、生きているものたちの世界が死の世界に触れる、境界の場所である。

太平洋に突き出した洪積台地の突端に、都市を形成することをした東京では、たくさんの場所がこの「サッ」にかかわっていた。

 

上の地図を見ると、

確かに東京は岬(みさき)の街なのだ、とつくづく思います。

 

「みさき」とは、

 

「ミ」の「サッ」です。

 

 

 

御・美・深(読み)み

精選版 日本国語大辞典 「御・美・深」の意味・読み・例文・類語

み【御・美・深】

〘接頭〙
① 名詞の上に付いて、それが神仏、天皇、貴人など尊敬すべき人に属するものであることを示し、敬意を添える。「みけ(御食)」「みあかし(御明)」「みかき(御垣)」「みこ(御子)」「みいくさ(御軍)」「みぐし(御髪)」「みもと(御許)」「みまし(御座)」など。
※古事記(712)上・歌謡「ぬばたまの黒き美(ミ)けしを」
※枕(10C終)九四「上の御つぼねのみ簾の前にて」
② (「美」「深」とも) 名詞、または地名に付けて、美称として用いる。「み空」「み山」「み雪」「み籠」「み吉野」など。
[語誌](1)本来は霊威あるものに対する畏敬を表わした。霊物に属するものだけでなく、霊物そのものにも冠する。「みかみ(御神)」「みほとけ(御仏)」など。「みき(神酒)」「みち(道)」「みや(宮)」などの「み」も本来はこれである。
(2)上代の尊敬の接頭辞としては「み」のほかに「おほみ」がある。「み」にさらに美称の「おほ」を加えて敬意の高さを強調したと考えられる。→おおみ(大御)。
(3)中古では、「おほむ」が多くの語につくのに対し、「み」がつくのは、宮廷・殿舎、調度、仏教、神祇関係の語である。→おおん(御)

「ミサキ」とは、「ミ・サッ」。

 

神の先端。

 

中沢新一はこう書きます。

 

(東京の岬は)「水(みず)の世界」へ突き出た突端部で、

しかも「水(みず)の世界」と言えば、

古代人の感覚では、死の領域への入り口にほかならなかった。

そのために、

そういう場所には、死の領域へのアンテナの働きをする、墓地や聖地が設けられた。

 

古代人はそこから、死のリアリティをこちらの世界に取り入れようとしたのである。

 

そしてその感覚は、ずっとのちの時代の人々の思考にも、深い影響を及ぼすことになった。

 

 

最初の地図に戻ります。

 

この地図でピンクに塗られているところは、墓地です。

 

一番目につくのは、赤丸で示した場所でしょう。

 

青山墓地です。

 

一際大きく、

 

まるで東京の舌、ベロのようです。

 

 

東京において、

遥か過去から、ずっと、

一際、重要だった場所。

それが青山墓地のある「岬」。

 

と見てとれなくもありません。

 

そこは、ずっと昔から、「死と生の境界」だったということです。

 

 

青山墓地付近を拡大します。

 

 

赤丸は「西麻布霞町交差点」です。

白い線は、外苑西通りと六本木通りです。

赤い点は松本隆生家です。

 

松本隆は、古東京の(つまり、アースをダイブしないと見えない)、

 

特に重要な「み・さき」の上端で生まれ、育ち、

 

その後、下端に引っ越し、思春期を生きたのです。

 

ところで、

「アースダイバー」では、青山、麻布、六本木について、大きな章を割り当て、考察しています。

 

中沢新一も、この地区の重要性を、しっかりと捉えています。

 

以下の図が青山、麻布、六本木のアースダイブ図です。

 

 

 

 

何度も確認しますが、

赤い丸点は松本隆生家です。

薄いブラウン部分は洪積台地。古来からの陸地です。

青い部分は沖積低地です。谷です。海の底です。

 

すると麻布霞町は、海の底です。

 

「死の始まりの場所」です。

 

麻布霞町について、松本隆は「不気味な町」と記しています。

 

幼い松本隆は、すでに鮮烈な感性で、青山、麻布あたりを「アースダイブ」していたのでしょう。

 

であるがゆえに、

なぜ松本隆が、「風街」を自身の「レゾンデートル」=存在理由としたのか、についても、朧げに見えてきます。

 

何度も言うように、青山墓地のある場所は、古代の「岬(みさき、(ミ)サッ」です。

当然のように縄文遺跡もあります。

古代人にとって、そこは「生と死の境目」として「特別な場所」・「聖地」・「神聖な場所」でした。

 

明治のはじめ、時の政府は、なぜ、青山の、しかもこの地に、日本初の公営墓地を作ったのでしょう。

 

当時、

広大な土地なら、他にいくらでもあったはずです。

 

そこにも、アースダイブ的な「何か」を感じるのは、私だけでしょうか。

 

 

風街に戻ります。

 

実は、松本隆の「風街」も、

青山墓地を中心として広がっています。

 

 

 

 

 

松本隆の生家はアスファルトの下に埋め込まれました。

 

アースダイブしないと見えなくなりました。

 

 

以来、外苑西通りを含む青山の街は、変遷に変遷を重ねています。

1964年のオリンピック。

2021年のオリンピック。

青山の街はどんどん変わっていきます。

ベルコモンズは、もうありません。

サンドリアも、もうありません。

エイコージーンズも、もうありません。

電電公社も、もうありません。

ピーコックも、東急ストアも、もうありません。

1丁目の市営団地も、3丁目の市営団地も、もうありません。

VANの看板も、もうありません。

 

六本木も、どんどん変わっています。

誠志堂も、もうありません。

「テンプス」も、もうありません。

WAVEも、もうありません。

 

麻布も、変わります。

怪人二十面相がピエロの姿で現れた麻布の三角洋館も、もうありません。

 

けれどそれは、もちろん、青山、六本木、麻布に限ったことではありません。

東京では、どこでも、造っては壊し、だから今、この瞬間にも、風景は流れ続けています。

 

松本隆はエッセイ「微熱少年」に、こう書きます。

 

 

生家のあったあたりはその貌を失っていた。

ぼくが遊び道具を仕入れた駄菓子屋や、紙芝居屋のあった路地は姿かたちもなく、近所の友だちも散り散りになり、

もはやぼくの家など、その舗装道路のどのへんにあったのかも見当がつかない有様だった。

そのあたりには瀟洒な珈琲屋が建ち、

ぼくはそのあたりにはいって安手のジュークボックスに耳を傾けながら、玻璃(ガラス)ごしに風景を覗いたものだ。

 

 

松本隆は、「風のくわるてつと」で、こう書いています。

 

ーねえ。風をあつめて、蒼空を駆けて、いったい何処に行くの?

ーさあ、何処かな、とにかく此処にはいたくないってことかな‥‥

ーひょっとしたら死にたいってことじゃない。

ーそれはあるな、というよりぼくは少年時代が終わった時点で、もうとっくに死んでいるのかもしれないって気がしてね‥‥

 

 

 

 

今回は、風街を、ちょっと違う角度から見てみました。

風街がなぜ、みんなの心をとらえたのか。

 

それはもしかしたら、私たちの心にある、古来からのDNAのせいかもしれない、

 

そんな仮説でした。

 

 

風街は、どこにでもある、そして、どこにもない街。

 

みんなの心にある街。

 

つい、触りたくなる街。

 

でも、永遠に触ることのできない街。

 

だからこそ、風街は、ろまんなのです。

 

風街は、今日も、

風をあつめながら、

蒼空を翔け抜けています。

 

 

 

 

 

 

 

 

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