WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.12

WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.12

 

「俺は、最低の男、なんだ、、、」

 

 

吉祥寺駅を降りると改札口で手を振っている女性がいた。

「吉田真奈さん。私のピアノの先生」その女性を真理はそう紹介した。吉田さんは世間一般のピアノの先生イメージとはまったく違う、洗いざらしの白いTシャツにこれまた洗いざらしのところどころ破けたジーンズ、背はそんなに高くはないけれど、健康的に焼けた肌、真ん中から分けた漆黒の長髪、吸い込まれそうな瞳、といった、ヨガのインストラクターか、少しヒッピーが入っている新進気鋭の現代芸術家、といった感じの、相当堅固な魅力を持つ女性だった。

 

chapter.11

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駅から井の頭公園に抜ける道の両側には、最先端のブティックや飲食店が軒を連ね、個性的なファッションをまとった若者が大勢かっ歩していた。

「この辺はね、私が子供の頃は畑と森だらけで、まさに武蔵野だったんだけど、最近はずいぶん家や店が建ってきて賑やかになったのよ」歩きながら吉田さんが言った。

僕はそんな浮き立つようなところを歩いていても、心は晴れなかった。さっきのショックが大きすぎたのだ。振り払っても振り払っても映画の最後の場面の、ミチのすごく幸せそうな笑顔が頭から離れなかった。あんな幸せそうな笑顔を浮かべた子が、その直後、ダムに身を投げた。その時の蕪谷の気持ちを考えたら息がつけなくなりそうだった。

真理もまた無言で歩いている。かかとを引きずった歩き方で。同じだ、と思った。

吉田さんの家は、井の頭公園を抜けた、まだところどころ畑が広がる静かな住宅地の一角にあった。

「家族は旅行中。だからこの家には今、私一人。気兼ねしないでね」吉田さんは、玄関で待っていたマルチーズを抱っこしながら、応接間に僕達を通すと、ソファに寝ころぶように座り、僕達にも好きなところでくつろいで、と言ってから、「で? で?」と訊いてきた。だから真理が今日一日のことを、真理にしては重い口調で話し始めると、彼女は大げさに、へえ、とか、ふーん、とか、おお、とか合いの手を入れて聴き入っていた。それでも話が静和のこと、『約束された土地で』という映画のこと、ミチのことになると、さすがに吉田さんも神妙になり、聴き終える頃には僕達と同じように怒りと悲しみが半分ずつ入り交じった顔になっていた。

「ひどいね。ひどすぎるね。君達が暗くなるのもわかる。それなら仕方ないよ。君達、駅に着いた時、真理ちゃんはまるでお墓からはい出してきた楳図かずおの『おみっちゃん』みたいだったし、岸田君はまるで『世にも怪奇な物語』第三話の、フェラーリをぶっとばして夜のイタリアの街を徘徊し、あげく首ちょんぎられて、その首を死に神の女の子にぽーんぽーんってボールのようにいたぶられる男みたいだったよ」と吉田さんはとてもマニアックな比喩で僕達のことを評したので、僕も真理もちょっとばかり笑ってしまった。

「お、笑った。いいんだよ。それで。だって明日、その雛乃沢ダイビングスクールってとこに行くんでしょ。蕪谷君っていう大親友に会うんでしょ。とにかく君達が元気ださなくちゃ。だって、一番絶望しているのはもう一人の女の子、染谷さん? だっけ。彼女なんだから。君達が元気ださなくちゃあ」

確かにそうだった。染谷のことをすっかり忘れていた。彼女こそ大きな衝撃を受けて、今頃たった一人、絶望と闘っているはずだ。それに俺は男だ、と森田健作なみに思った。ヤマさんにも言われてたじゃないか。ナイトにならなくちゃいけないんだ。

「とにかく明日、私も行くから。私のかわいいボロクソワーゲンに乗せたげるから。黄色のすてきなワーゲンだよ。たまにエンストするけどかわいいやつだから。それで特別君達を最果ての地、といっても千葉なんだけどね。そこまでお連れしてあげましょう」吉田さんが元気よく言ったので、僕も、思いの外元気に「お願いします」と言えた。すると真理も、「ありがとうございます」と殊勝に頭を下げて、それでようやく場の空気が吹っ切れてきた。

「でもあなた達、いいなあ。大冒険だよね。中学生にとって。それがいいなあ。すごくいいなあ」とことさら大げさに言って、僕と真理を熱いまなざしで見つめてきたので、なぜか僕はすごく恥ずかしくなって、思わず目を伏せてしまった。

「まるで『小さな恋のメロディ』だよ。あなた達。トロッコに乗って吉祥寺までやってきたってとこだよね」すると真理はトレイシー・ハイドで、それはまあなんとなく納得できたが、僕が紅顔の美少年、マーク・レスターってことになって、さしずめヤマさんはジャック・ワイルドで、すると僕と真理は近いうちみんなに結婚式をあげてもらって、などと妄想が広がってきて久しぶりに顔がとろーと溶け出してきたので、はっとして僕は顔の筋肉を引き締めた。

いつのまにか吉田さんの手にビールの入ったグラスがあって、僕と真理の前にはコーラの入ったグラスが置かれていた。

「あのさ、君達、バンドやってるんだって?」吉田さんがおいしそうにビールで喉を潤すと言った。「中学生でバンド。最高だね。青春だね」

真理が、「でもね。吉田さんもバンドやってるのよ」と僕に言った。

「そう私もね、バンドやってるんだ」と吉田さんは声を弾ませて言った。「楽しいよね。バンドって。私、ずっとクラシック畑だったけど。でも楽しい。すごく楽しい」

「そのバンドの人ってのが、実は先生の彼氏なの」真理がにこっと笑いながらつけ加えた。「私、いつもその人ののろけ話、聞かされてるの。吉田さん、すごく好きなんですよね。その人のこと」真理の問いに吉田さんは照れることなく、うん、とうなずいた。

それからしばらく雑談して、じゃあ、明日もあるし、寝よ、と吉田さんが言って、時計を見ると軽く十二時を回っていたので、さっそく僕達は寝支度に入った。当然のように、真理は吉田さんの部屋で、僕は応接間に急遽ふとんを敷いてもらい、そこで寝ることとなった。

吉田さんと真理が二階に引っ込むと、急に応接間が、しん、としてしまった。僕は洗面所で吉田さんが用意してくれた歯ブラシで歯を磨いて、これまた吉田さんが用意してくれた吉田さんのお父さんのパジャマに着替えて、電気を消すと、ふとんに潜り込んだ。ふとんの中は、これ以上ないぐらいふかふかで、柔らかかった。その柔らかさは、心の芯に残っていた今日のショックをずいぶん溶かしてくれた。

今、ここにいることがなんとも信じがたかった。ついさっきまでまったく知らなかった人の家の応接間でまったく知らない人のパジャマを着てふとんにくるまっていることが。東京の武蔵野の夜の闇に包まれていることが。

蕪谷のことを考えていた。僕達の町にやってきた時にはすでに彼は静和の思惑どおり、究極の絶望を体験していたのだ。やつのつっぱりは究極の絶望を通過してもなお生きようとした、運命へのつっぱりだったのだ。そう思うと蕪谷がすごく愛おしくなった。今すぐにでも抱きしめてやりたくなった。僕と真理と染谷は明日、蕪谷に会いに行く。会えるだろうか。雑誌に書いてあった雛乃沢ダイビングスクールは、とても恐ろしいところだった。あんなところに蕪谷はいて、大丈夫だろうか。壊れてないだろうか。早く会いたい、と思った。でも会えるだろうか。たぶん、会える、なぜかそう思った。普通は絶対会えないはずなのに。でも会える。なぜなら僕達には彼に対する愛があるからだ。でも会ってどうしようというのか。彼を助ける? 何から? 彼を連れ出す? 何のために? 学校祭で演奏するために? もうそんなちっぽけなことが目的じゃないのはわかっていた。

蕪谷と夏の日に訪れたダムの風景が頭に浮かんだ。彼は長い時間じっとダムの水を見つめていた。あの時、彼はいったい何を考えていたのだろう? 何を感じていたのだろう?

嘘っぱちだらけの映画の中で、たったひとつだけ真実があった。写真だ。写真はミチの故郷。ミチの故郷は『…人町』。それだけは真実だ。そうに決まっている。

ただし『…人町』が旅人町なのだ、という確証はない。どこにもない。

それなのに蕪谷は僕達の町にやってきた。蕪谷は確信しているようだった。どうしてそう思ったのだろう。

蕪谷は、絶望の果てから這い上がったのだ。彼は部屋に籠り、毎日「…人町」を探していたのだ。ある時、『旅人町』を見つけたのだ。その名に何かを感じたのだ。そうに決まってる。だから僕らの町にやってきたんだ。蕪谷に会いたかった。あって、抱きしめたかった。旅人町を選んでくれてありがとう、と伝えたかった。

わかった。

僕達が蕪谷に会いにいく理由。それは蕪谷と同じだった。

僕達は絶望してはいけないんだ。あきらめてはいけないんだ。だから蕪谷に会いに行くんだ。

さらに、もう一つわかったことがあった。

ふとんから出ると、電気を点け、電話を探した。電話は応接間の棚の上にあった。吉田さんに無断で悪いな、と思いつつも、電話しないではいられなかった。時計をみると十二時半だった。真夜中だった。ヤマさんは、ヤマさんにしては敏捷に最初の呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに電話に出た。たぶんずっと電話の前で待機していたのだ。ちなみにヤマさんちの電話は恐ろしくだだっ広い玄関の隅にある。夜中すぎまでヤマさんは僕の電話を、ひんやりとする玄関に座って、ずっと、ひたすらずっと待っていてくれたのだ。

「マー、どした?」力の抜けたその声を聞いたとたん、僕は泣きそうになった。ヤマさんの声がすごく温かく、方言がすごく懐かしく聞こえた。話したいことは山ほどあった。でも言葉にならなかった。だから結局、

「染谷も真理も元気だ。俺も元気だ。とりあえず明日、俺と真理と染谷は蕪谷に会いに行くからよ」としか言えなかった。

するとヤマさんはこう言った。「わかった。マー。おまえは、おまえが一番いい、と思うことを思い切りやつてこい」僕はまた泣きそうになってしまった。だから早口で、「わかった。ヤマさん」と言った。ヤマさん。待っててくれた。俺の電話を。真夜中すぎまで。ずっとずっと人気のない玄関の片隅に座って。

「あのな、ヤマさんよ」

「なんだ、マー」

「俺な、今日、辛かった」

「そうか」

「そんでな。蕪谷の、怖い、の意味がわかった」

「そうか」

「ああ、わかった。蕪谷が怖かったのは、大人になることだった」

「おう」

「大人になるのはいいんだけどな。愛が見えなくなる大人になることがやつは怖かったんだ」

「そうか」

「でも俺は大人になりたい」

「おう」

「だけど大人になるのが怖い」

「おう」

「でも大人になる」

「おう」

「立派な大人じゃなくていい」

「おう」

「立派じゃなくてもいいから、愛が見える大人になる」

「そうか」

「じゃあ、切る」

「わかった」

「おやすみ」

「おやすみ」

電話を切ると、僕は電気を消して、ふとんに潜りこんだ。ヤマさんの相づちは、すごくぶっきらぼうで、だからすごく温かかった。今度こそ眠れそうな気がした。今度こそ。

 

いつのまにか眠っていたらしい。物音がしたような気がして、目を開けると、台所に灯りがついていた。のどが渇いていた。水を飲みに行こうとふとんを抜けだし、台所に行ってみると、スウェットの上下を着ている吉田さんが冷蔵庫を開けるところだった。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

「いえ」本当は起こされたのだが、僕は首を振った。

「うん。飲み過ぎちゃって。気持ち悪くなって。だから牛乳を飲もうとして。ごめんね。起こしちゃって」

吉田さんは冷蔵庫から牛乳瓶を二本取り出すと、いい音を立ててポンポンと蓋を開け、一本を僕に、はい、と差し出した。牛乳はほどよく冷えていて、一口飲むとすごくおいしくて、僕は思わず一気に、喉をごくんごくんと鳴らしながら飲み干してしまった。

「おー。いい飲みっぷり。もう一本いく?」と吉田さんはすごく嬉しそうに笑ってもう一本差し出した。でもさすがに二本はきつかったので、いいです、ごちそうさまでした、と言って、台所を出ようとすると吉田さんが「ねえ、岸田君」と呼び止めた。

「何か食べよう。私もお腹すいちゃったから何か作る」吉田さんの口調の、確固たる引き留めの意志に僕は仕方なくダイニングチェアに座った。

出来上がったのは焼きビーフンだった。香ばしい匂いに僕は初めて自分の空腹に気がついた。そういえば昨日、ほとんどまともに食事をしていなかった。そう思うとたまらなくお腹が減ってきて目の前の焼きビーフンをものの一、二分で平らげてしまった。気がつくと吉田さんがそんな僕をこれまた楽しそうに見つめていた。

「あー、いいな。その食べっぷり。さすが中学生。若いなあ」そう言って、私のも食べる? と訊いてきたけれど、さすがにそれは恥ずかしくて、いいえ、と首を振った。

吉田さんは僕の前に座ると、自分が作ったものには手をつけず、ワインをちびちびやりだした。一口飲むと僕をじっと見つめ、ということを何度か繰り返した。間がもたなくなって僕が、じゃあ、と立ち上がろうとすると、吉田さんは、だめ、と言った。

「もっとここにいて」仕方なくもう一度腰掛けると、吉田さんはワインを一口飲んで、僕をじっと見つめ、言った。「かわいい顔しているね」

はあ? である。かわいい? まあ、そりゃあ、蕪谷にピントのずれたバクと言われたこの俺様である、でも、かわいい? のか。

「けしてハンサムとはいわないけど、かわいいね、君」

けしてハンサムとはいわない? これまた聞き捨てならなかったけれど、どう対応していいかわからず、しかも吉田さんの視線の強烈さに耐えられなくなって、自然と目を伏せてしまった。

「真理ちゃんが好きになる気持ちも、わかるな。なかなかいいと思うよ」

これまたなんと答えていいかわからなかった。ただむずむずしてくるだけだった。

「ところで真理ちゃんとキスした?」

はあ? キス? キスだって?

「あ、そのリアクションはまだしてないな。うん。いいな。そういうのも、いいよ。君」

しかし吉田さん、いったいどうしたというのだ。だいたい今は夜中の三時すぎである。そんな真夜中に、今日初めてあった女性、というか魅力的なお姉様とキスの話をしている僕はいったい何なのだろう、と思ったら、急に顔が火照り始めた。

「じゃあ、さあ、真理ちゃんと手、繋いだことは?」

はあああ? と思うまもなく顔が真っ赤になったので「あ、手は繋いだんだ。わあ、いいなあ、いいな。この不良中学生」もう完全吉田さんペースである。どうにも返答できずにどぎまぎしているとさらに吉田さんは、「真理ちゃんとキスしてみたい?」と悪戯ずきの幼稚園生みたいな目で訊いてきた。「いいよ。ほんとのこと言っても」と今度はセイ! ヤングのレモンちゃんのノリである。

でも。真理とのキス。もちろん、考えたことは、あった。いつもの河原で手をにぎっていろいろな話をして、だんだん夜が近づいてきて、じゃあ帰るか、と立ち上がる瞬間、心の奥底で声が聞こえてくることが。誠。今だ。彼女を引き寄せてキスしちゃえ、と。が、そんな勇気もなく、僕達は自転車を押しながら真理の家の前までやってきて、じゃあ、また明日、と別れるのだ。それが僕達だった。

「やっぱりね。したいよね、それが健全だもん。健全な男の中学生だもんね。岸田君は」僕の無言を吉田さんは正確に分析してそう言った。

こっそり吉田さんを見ると、頬杖ついて、片手にはワイングラスを持って、まっすぐ僕を見つめている。もしかして、吉田さんは、誘惑しているのだろうか。

「いいよ。しても」

えっ、と思った瞬間、吉田さんの瞳に涙が溢れ出した。その涙を見つめながら、昨日から今日にかけてたくさんの涙を見たことを思い出した。

「あのさ、君はさ。真理ちゃんを泣かしたらダメだよ。大きくなっても、大人になっても女の子を泣かしちゃダメだよ。そんな大人になったら、私が許さないから」

そう言いながら涙を流し続ける吉田さんになんて声をかけていいのかわからなかった。だから曖昧にうなずくだけだった。

 

「あのさ、私、ドビッシー、好きなのよね」

吉田さんはひとしきり泣くと、突然、僕の妄想とはおかまいなく、台所の片隅にあったラジカセのスイッチを押した。

「これ『雨の庭』っていう曲。すごく好きなの」

とらえどころのないメロディで、けれど確かに『雨の庭』という題名がぴったりとくる、そんなやるせない気持ちにさせるピアノ曲だった。

「私の行っている音大は、みんな小さい頃から有名な先生についてプロの演奏家を目指しているような女の子ばかりで、毎日みんな何時間も何時間も練習室で練習しているの。ふだんはおっとりしていていかにも良家の子女なんだけど、練習している彼女達は鬼気迫っていて、ものすごい闘争心をピアノにぶつけているのね。ピアノって格闘技なんだ、って思ったぐらい。もちろんそういう気持ちがなければプロになんかなれないんだけど、だから足の引っ張り合いも多いの。表面上はみんな仲良しこよしなんだけど、その裏でね、練習室から音が漏れてくるじゃない、その音をみんな耳をそばだてて聴いているの。あの子は私よりうまくない、とか、このフレーズはこんなふうに弾いたらダメ、とか、そういうことを陰で話しているの。私はダメだった。ぜんぜんダメだった。そういう雰囲気。私だって小さい頃から有名なピアノの先生についていつかはプロになるんだ、って漠然と思っていたけど、音大に入って、そんな雰囲気に嫌気がさして、なんか引いちゃって、コンクールにも出なくなって、ずっと目標にしていたことがなくなって体の真ん中が空っぽになって、そんな時、あの音が聞こえてきたの」

「あの音?」

「うん。噂はあったんだ。夜の十一時のドビッシーていう噂。すごく怖い噂」

吉田さんの話によると、ずっと前からその噂は流れていたそうだ。夜、十一時に決まって練習棟の十三号室から流れてくるドビッシー。

ある日、一人で遅くまで残っていた吉田さんの耳に、ドビッシーの『雨の庭』のフレーズが飛び込んできた。時計を見ると午後十一時。噂は本当だったんだんだ、と思った瞬間、吉田さんは鳥肌を覚えたそうだ。でもそのピアノの音を聞いているうちに、今度は別の感情が芽生えてきた。そのドビッシーは、うまい演奏ではなかった。というよりほとんど素人の演奏だった。ところどころ引っかかり、しかも最初の部分だけを何度も繰り返し弾いていた。でもなぜかその木訥とした演奏が、吉田さんの心にまっすぐ響いたのだ。心に開いた穴をほんわかと塞ぐ音。吉田さんは、その音に導かれるようにいつしか十三号室の前に立っていた。小さな窓から覗くと、見知らぬ男がピアノの前に座っていた。長髪で髭を生やし、破れたジーンズを履き、古ぼけたシャツを着た男。明らかに音大の学生ではなかった。彼はきっかり三十分、『雨の庭』を弾くと、ぱたん、とピアノのふたを閉じ練習室から出てきた。通路で固まっていた吉田さんの脇を何も言わずすり抜けていった。吉田さんはずっと動けなかった。彼がすり抜けるとき、すごくいい匂いがしたからだった。

「それから毎日、十一時になると十三号室の前で、彼の演奏を聴いたの。何日も何週間も何ヶ月も。ある時、彼が初めて話しかけてくれた。何でいつもここにいる? て。その声を聞いた瞬間、あ、ピアノの音にそっくりだ、と思ったの。木訥で不器用で、でも温かくて。心の穴をほんわかふさぐ声だった。だから彼に言ったの。つきあってください、って。彼はただのバンドマンだった。すごく貧乏で、地方から出てきてずっとバンドやっていて、でも芽が出なくて、だから八年も大学の清掃の仕事をしていて。仕事が終わってから三十分だけ毎日ドビッシーを弾いて。その日のうちに彼のアパートに行って彼に抱かれた。すごく幸せだった。それから二年経つけど。真理ちゃんには話してないことだよ。なんで君に話してるんだろう。でもね。すぐにわかった。彼が、どうしようもない男だってことが。ピアノの音は、彼の声はあんなに木訥で誠実で優しいのに、本当の彼は、全然優しくなくて、ただの女ったらしだったの。お金はないから会う時は全部私が出してあげるし、すごくモてるからたくさん女はいるし。彼もはっきり言ってる。おまえは四番目ぐらいの女だよ、それでもいいの? って。私は、いい、ていうの。四番目でも、二十番目でも。あなたの声が聞ければ。あなたの体に触れられれば。でもそういうのって時としてすごく辛いのよ。今日もそう。君達が来る前、彼のアパートにいたんだけど彼は途中で女のところに行っちゃった。なんだかんだ言い訳してたけど、女のところだってすぐにわかった。でも、どうしようもないんだ。だから、君。真理ちゃんのこと、泣かしたらダメだよ。そんな男になったらダメ。私が許さないから」いつしか吉田さんの目が据わっていた。僕はどう相づちを打っていいかわからず、ただ黙って吉田さんの話を聞いていた。

話し終わると、吉田さんは突然、ふらっと立ち上がった。「あ、ごめん。私、すごく酔っているかも。ごめんね。岸田君、ごめん」と言うなり台所を出て行こうし、でも何を思ったのか、吉田さんは突然、僕に抱きついてきた。すごく柔らかい塊が僕の胸のうちにあった。ほのかにワインの匂いがした。吉田さんはしばらくそのまま僕の胸に顔を埋めて、でもそっと顔を上げると、僕の首に両手を回して、キスしていいよ、と言った。僕の目の前に吉田さんの顔があった。目を閉じて、唇を開いた吉田さんの顔があった。彼女が呼吸するたびに息づかいが僕の顔にかかり、密着している彼女の豊かな胸が少しばかり波打った。僕はどうしていいかわからず、ただじっと体を硬くさせて彼女の体が倒れないようにぎこちなく彼女の背中に腕を回した。

「いいんだよ。キスして。したいでしょ。いいんだよ」吉田さんはもう一度そう言って、思いのほか量感のある唇を僕の唇に近づけてきた。僕の頭はもう真っ白になっていて、何も考えることができなくなっていた。

「岸田君、言って。したい、って。私とキスしたい、って」吉田さんは、かすれた声で何度も言った。キスしたいって。ねえ。言って。岸田君。言って。

したい。

知らないうちに僕はそう言っていた。ような気がした。

本当に言葉になったのか自分でもよくわからなかった。ただ口のなかでその言葉がぐるんと回っただけのようにも思えた。

突然、吉田さんが急に重くなった。僕の首に回していた両手がだらんとさがり、さっきまで強力に僕を誘っていた唇から、規則正しい寝息が漏れ始めた。僕はどうしていいかわからず、とにかく吉田さんが倒れないように、支える腕に力をこめた。いったいどのぐらいそうしていただろう。たぶん一、二分ぐらいだったろう。でも僕には永遠にも思える時間が過ぎた時、吉田さんは、体を震わせて目を開け、驚いた顔をして僕から体を離した。

「ごめん。岸田君。ごめんね。私、おかしいや。真理ちゃんには言わないで」と言って恥ずかしそうに髪の毛をかき分けると、「真理ちゃんは、私がすごくステキな恋をしている、と思っているんだから。ほんとはどろどろなのにね」と言い、ちょっと言葉を切ると、「私ね、最近、つきあい始めた男がいるの。大学の先生。既婚者。バカだよね。私」と早口でつけ足して台所から出て行った。

僕はしばらくそのまま台所にいて、でも急に疲れが出て、這うようにふとんに潜り込んだ。吉田さんの体の重み、息の熱さが僕の芯をしびれさせていた。しばらく何も考えられなかった。吉田さんの言った言葉が脈絡なく浮かんだ。キスして。ドビッシー。キスして。女ったらし。キスして。女の子を泣かしたら許さない。

昂奮がさめると、急に心が重くなった。真理に秘密ができてしまった。

僕は、したい、と言ってしまった。少なくとも心の中では。真理にではなく、吉田さんに。

そう思ったらすさまじい自己嫌悪が僕を襲った。とりかえしのつかない裏切りだと思った。いったい何なのだろう、と思った。自分が信じられなかった。ほんの一瞬でも他の女の子にキスしたい、と思うなんて。

最低だ。さいていだ。サイテーだ。さ、い、て、い、だ。

真理を泣かしたら私が許さないから、という吉田さんの声が、浅い眠りにつくまで頭の中をぐるぐる回っていた。

 

 

 

chapter.13

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