「僕たちはみんな、哀しき70’s kids」
とりあえず思い出話はこれで終わりだ。
だが、往々にして、こういう話には後日談がある。
「そのとき、僕たちはたったの中学三年生だったんだ」 光が差し込んでいる。一瞬僕は自分が森の奥深くにいるように思えて飛び起きると、そこは吉田さんの家の応接間だった。朝の光が応接間に舞う淡い塵にキラ[…]
「それで、夏美ちゃんや春菜ちゃんは、夏休み、何、やっているの?」僕は運転しながら助手席の真理に訊いた。
「夏美は中学生だから毎日部活。それから塾の夏期講習。演劇部なんだ。演劇、相当好きみたい。しかも古いもの好き。歌舞伎に連れてってくれとか、能が見たいとか。今の中学生って変わってるわ。というか夏美が変わってるんだけど。読んでる本だって泉鏡花だよ。私達の頃は新しいものほどわくわくしたじゃない。でも違うの。スタバに行くなら、ボアの方がいいんだって。落ち着くんだって」
「ボア?」
「駅近くにある喫茶店なんだけどね。昔からやってて、まるで昭和の純喫茶って感じのとこ。確かに落ち着くいい喫茶店だけどね」
なるほどそうかもしれない。僕の息子も古いものが好きだ。特に車は古い車のほうがカッコいいって言っている。
「春菜は、まだ小学生だからね。バイオリンと学習塾だけかなあ」
僕達は山道を登っている。新緑が眩しい。空は真っ青に晴れ渡っている。
「でも不思議だよ。岸田君と私、今、一緒にドライブしている」真理が言った。
僕も思っていた。今、僕と真理は車でドライブしている。不思議だった。
カーラジオから、曲が流れてきた。
「真理。この曲知ってる?」
「うーん。なんか、昔、聴いたこと、あるような…」
カントリータッチの軽快なポップソングだった。
曲が進むうちに、胸が締めつけられそうになる。
「これは、あの年に大ヒットした曲なんだ」
「あの年?」
「僕らが中学三年生だった、あの年」
曲は流れ続ける。
僕と真理は、山道を登り続ける。
「題名は、『愛ある限り』。キャプテン&テニールっていうおしどり夫婦が歌っている」
「岸田君は昔から洋楽、詳しかった」
あの年、そういえば、ずっとヒットしていた。ずっと一位だった。
『愛ある限り』という名前だった。そういえば。
「ねえ、岸田君」
「なに?」
「修学旅行の夜のこと、覚えてる?」
僕は運転しながらうなずいた。
ヤマさんが県政史上最年少の知事になった祝いの席で、僕は坂下真理に会った。思いきって、ドライブに誘った。決着をつけたかった。
…俺、県知事になった、だから祝いの席を設けるわ、おまえ、来い、とヤマさん本人からの電話で、ヤマさんはこう言った。
「マー、真理も来るから、今度こそ、ちゃんと話せ。絶対逃げるな」
真理と前回会ったのはダースコの葬儀の時だった。僕達は三十歳だった。
中学卒業以来だった。真理は長女を生んだばかりで、通夜に参列してすぐ東京に戻ってしまったから、その時は会話しなかった。というより、僕も真理もお互いを避けていた。向かい合う勇気がなかった。
けれども今日。
僕達は四十五歳になってようやく向き合うことができた。
「私ね」真理が言った。
「高校時代、すごく孤独だった。友達はいたよ。でも孤独だった。だからすごく勉強した。勉強が逃げ場だった。その頃、同じ夢を何回も見た。「シンプルドリーム」で学校祭の舞台に立つ夢。みんなすごくいい顔してて、すごく張り切っちゃって、せーの! で『ダウンタウン』を演奏するんだ。勿論ドラムは蕪谷君でコーラスは美保で。最後まで演奏しきると、ヤマさんが、ありがとー、みんなーって叫ぶんだ。観客が総立ちで、わーって言う。十万人ぐらい。まあ、そこが夢なんだけどね。でもその夢を見た次の日は、現実の世界がどうしようもなく味気なくて。素っ気なくて。夢はすごくステキで。今は見ないけどね。高校時代はよく見たな、その夢。よく見た」
真理は最後に、一言、つぶやいた。
「あの頃は辛かったな」
雛乃沢ダイビングスクールから帰ってきた日。染谷を親戚の家の近くで降ろして吉田さんの家に着くと母親達が待っていた。僕を見るなり母は僕を平手打ちして、真理ちゃんのお母さんに謝りなさい、と怒鳴った。真理のお母さんは泣いていた。泣いているお母さんの前で真理は、見ようによっては冷めて立っていた。吉田さんが、私が悪かったんです、とその場をどうにか取り繕って、とりあえず僕達は母親同伴で家まで戻ってきた。
後でわかったのだが、どうもおかしいと思った真理のお母さんがいろいろ動いて結局僕達の無断外泊はばれてしまったのだった。
次の日、僕達が学校に行ったらすでに僕と真理が二人で何処かに泊まったという噂が学校中に流れていて、佐島達が僕をからかったりそれをヤマさんやダースコが制したり、僕と真理は校長室に呼ばれて事情を聴かれたり、他のクラスのやつらも僕と真理の様子を覗きにきたり、と、とにかく大変だったのだ。
でも大変だったのは僕達だけではなかった。
染谷美保がいなくなってしまったのだ。
染谷は吉田さんの車を降りると、親戚の家に戻らず、田舎のお婆さんの家にも戻らず、文字通り行方不明になってしまった。
けれど染谷の行方不明事件はすぐ解決した。雛乃沢ダイビングスクールにいることが判明したからだ。染谷雄三が連絡してきて、今後、美保は私が面倒見ます、と告げて、そういうことなら、ということで染谷美保は南中学の生徒ではなくなった。
学校祭に染谷も蕪谷も来なかった。
僕達は最後の最後まで待ち続けた。それでも二人は来なかった。だから学校祭でバンド、は実現するはずもなく、学校祭自体も、呆気なく終わってしまった。
旅人町は狭い田舎町だったから、僕と真理のことは大人の間でも噂になって、その中には相当酷いものもあった。僕達は駆け落ちをして連れ戻されたとか、真理は妊娠していて遠い町で堕ろしてきた、とか。僕はどうにか我慢できたけど真理の方がダメージは深かったに違いない。
僕達はほとんど会うことが出来なくなった。家の監視が厳しかった。特に真理の家がそうだった。学校でも気軽に話すことが出来なくなった。それでも僕達は人目を忍んで会った。そんな時、堰を切ったようにいろいろな話をした。受験のこととか親への不満とか。けれどもバンドのことは話さなかった。蕪谷のことも染谷のことも話さなかった。
真理は二人になるとすごく嬉しそうだった。僕も嬉しかった。でも心の片隅にはどこか怯えがあった。吉田さんとのことがどうしても引っかかっていた。
ある時、僕と真理の初恋は、突然終わった。
十五歳だった。僕達はまだ幼かった。有り体に言ってしまえばそうだった。
「静かだね」
真理はそう言って一回深呼吸した。時折、風が吹いて木々を揺らした。
三十年前、蕪谷と自転車でやってきたあのダム。旅人ダムに僕達はやってきていた。
「岸田君、元気そうだ。よかった」
「真理も元気そうだ」
不思議なことに昨日会ったみたいに話せた。
「ヤマさん、ほんと嬉しそうだった」真理が言った。
「何たって県知事だからな。すごいよな、ヤマさん」
「すごいね。県知事って大統領並みに偉いんだよ。ところで岸田君、仕事どう?」真理が訊いた。
「メーカーだからね、忙しいよ」
「責任もあるでしょ。うちの旦那も夜遅いよ。すごく」
「真理のご主人は超エリートじゃんか。商社だろ。しかも東大出だし」
「でもあの会社、東大出は普通だからね」
真理が言うと全然嫌味に聞こえなかった。
真理は大学を卒業すると商社に勤め、そこで出会った人と結婚し今は二児の母親だった。彼女は山の手の優雅さを身につけていて、それは確かに真理の今だった。それでも話してみると中学時代と変わらない真理を見つけることができて、それは少しばかり驚きで、素直に嬉しかった。
僕は中堅私立大学を卒業して中堅電機メーカーに就職し、岡山支社に勤めていた時に知り合った子と結婚した。二十九歳だった。岡山出身で短大を卒業し僕の職場に配属されてきた子と普通に結婚した。二人の子が生まれ、浜松本社近くに家を建て、普通に四十歳まで生きてきた。
でも四十歳になった時、僕は普通じゃないことをした。一ヶ月の長い休暇を貰ったのだ。社内の立場を考えるとそれは相当普通じゃなかった。さまざまな軋轢もあったし、たぶん昇進に響くかもしれないぐらい普通じゃないことだった。でも僕はそれをしたかった。しなくてはならなかった。
その一ヶ月で僕はいくつかのことをしようと思った。
ひとつは染谷雄三に会うことだった。
染谷美保が雛乃沢ダイビングスクールに戻った、と聞いた時、正直に言えば衝撃を覚え自己嫌悪に陥った。染谷美保は最後まで蕪谷を見捨てなかった。それに比べ僕は、という自己嫌悪だった。言い訳はできた。染谷美保は形からいえば父の元へ戻ったのだからとか、僕は親の監視がすごく厳しいとか、町の大人の視線がすごく冷たいとか。でも違うのだ。結局は挫けたのだった。施設での不気味な蕪谷を見た時の衝撃に僕は負けたのだ。だから蕪谷を見捨てたのだ。そう。異様な蕪谷にショックを受け、結局彼を抱きしめることをしなかった。ただ見捨て逃げ帰ってきただけだった。
真理もまた同じ思いだった、と思う。
それでも真理は一度だけスクールに電話したと言っていた。染谷がそこにいるとわかった時に。電話は取り次いでもらえなかった。
ヤマさんは第一志望の高校(あの東高校だ)に合格した日、一人で雛乃沢ダイビングスクールに乗り込んだ。だが結局施設内には入れてもらえなかった。
僕はヤマさんに誘われたにもかかわらず行かなかった。行けなかった。
ダースコはもっとすごかった。三谷と暴走族を率いて雛乃沢ダイビングスクールを目指したのだ。あのダースコが、だ。いつもへらへらしていて、蕪谷に対しても一線を引いていたようなダースコが、だ。ダイビングかタイピングか知らねえけどよ、ふざけるなって、俺がやつを奪い取ってくるぜ、と。でも、ダースコもやっぱり蕪谷には辿り着かなかった。途中、千葉の暴走族と大乱闘となり、警察に逮捕されてしまったからだ。
とにかく僕は、たぶん真理も、あの日以来蕪谷と染谷から逃げてしまったのだ。逃げたという思いは、僕の心の奥底でこれまでずっと自分に矢を放っていたのだ。何十年も。
雛乃沢ダイビングスクール事件が起こったのは一九七八年のことだった。スクール生が訓練中に死亡したことが明るみに出た。教官が日常的にリンチまがいのことをしていたということも明るみに出た。校長が逮捕された。染谷雄三だった。けれど染谷雄三はあくまで事故であり、リンチではなく教育だ、と主張した。テレビで連日この事件が報道され、スパルタ教育、是か非かということで有識者が議論した。染谷雄三に有罪判決が下され、刑務所に収監された。後ろにいるはずの雛乃沢天命や「こころの会」の名は最後まで出てこなかった。すべて染谷雄三以下現場スタッフの責任ということになった。
僕は現在の染谷雄三の住所を調べ、訪ねた。
染谷雄三は伊豆で個人塾を開いていた。彼は僕のことを覚えていた。老人になった雄三は、それでも毎日塾生と一緒に海に潜っている、と胸を張った。
「賛同してくれる方々が支援して下さって、今でも子供の更正に関わる仕事をしています」
そんなことはどうでもよかった。ただ一点、僕が訊きたかったのは蕪谷のその後だった。染谷美保のその後だった。
「蕪谷君は演技をしていました。私達は騙された。従順で素直で彼は終始模範生でした。蕪谷君は本当に模範生だったのです。美保がスクールに戻ってきて一週間後のことでした。二人は学校祭に参加するためにスクールを出ました。教官もついて行きました。学校祭に参加したら、すぐ戻ってくるはずでした。けれど彼らは戻ってきませんでした。二度と。
乗換駅で突然彼らは逃げ出したのです。雑踏に紛れる瞬間、二人は何をしたと思いますか? あっかんべー、ですよ。教官に向かって。あっかんべー。教官はあまりの悔しさに涙を浮かべていました。
「こころの会」は全国組織です。ですから急遽あなた方の町を包囲しました。学校祭に現れるかも、と思ったからです。でも彼らは現れなかった。
蕪谷君のご両親も必死に捜しました。警察も動きました。
それでも見つからなかった。
蕪谷君は、美保は、現代の日本でまるで神隠しにでもあったように忽然と姿を消してしまったのです」
そうだったのか。
僕はようやく真実を知ったのだった。
彼らは二人で消えた。学校祭の日に。しかもあっかんべーまでして。
染谷雄三の沈痛な表情とは裏腹に僕の表情は明るかった。やっぱり蕪谷は演技してたんだ、やっぱり傲慢不遜な男だったんだ。口笛のひとつでも吹きたくなった。少しばかり免罪されたような気分だった。僕達が助けに行かなくても彼らは自力で脱出したんだ、と。
次にしたこと。それは『希望回復委員会』を訪ねることだった。
記憶を頼りに北青山を徘徊した。街は様変わりしていた。歳月は当然のように流れ、街は変容していた。静和が作った雑誌は当時、熱狂的に受け入れられた。フォロワーも生まれ神話となった。その雑誌を筆頭に彼が手がけるものはすべて当たった。静和はいっとき時代の寵児としてもてはやされた。
けれども、静和は突然姿を消した。
当時の静和をよく知る者に話を聞いた。
静和が姿を消す直前、小さな事件があったのだという。
不思議な事件だった。暴漢に襲われたのだ。といっても暴漢は高校生ぐらいの男女で、暴力を振るったわけではない。ナイフで斬りつけたわけでもない。仕事を終えて静和がテレビ局から出てきた途端、卵をぶつけただけだった。ただし、一個や二個ではなく、大量に。投げ終えたその子達は、全身卵まみれで呆然と立ち尽くす静和の耳元で何かを囁き、悠然と去っていった、という。
彼がいなくなったのはその次の日だった。
静和はすべての財産を換金し忽然と姿を消した。
『希望回復委員会』がまだ残っているとは思わなかった。静和が今でもそこにいるはずがなかった。ただ僕はそこに行く理由がある、そう思った。一度は訪れなくては行けない場所。
当てずっぽうに歩いていると不意に記憶の路地に出た。ここを曲がれば行き止まりで、空色のドアがあるはずだった。
急いた気持ちとは裏腹にゆっくり路地を曲がった。
あった。
朽ち果てた廃墟のような空色のドア。字も読めなくなった看板。それでも昔と同じ光景。
僕はそっと看板に触れた。あの夜の記憶が脳裏を駆け巡った。染谷の瞳。真理の横顔。映画の中の蕪谷とミチの微笑み。静和のメタルフレーム。死せる豚の高木。サイヤがかけた荒々しいジャズ。体を貫いた怒りと絶望。
あれから何十年も経ったのだ。
しばらくそこに佇み、去来する多くの感情を落ち着かせ、立ち去ろうと看板から手を離したその時だった。
何かが地面に落ちた。
看板の後ろに挟まっていたものらしかった。
十円ガチャ、今でいう百円ガチャのプラスチックカプセルだった。
拾う前に看板の後ろを覗いてみた。
ちょうどカプセルが入れるぐらいの形の穴が巧妙に削られてあった。
カプセルの中には、くちゃくちゃに丸められた古い便箋が入っていた。
急いで広げて文字を追った。途中から読めなくなった。涙が溢れて仕方なかった。
ダースコは中学を卒業すると高校には行かず三谷のテキヤを手伝い始めた。例の千葉での暴走族同士の大乱闘で逮捕されて以来、彼は少年院を出たり入ったりを繰り返し、一時は暴力団にも出入りしていた。それでも二十代半ばには堅気になって結婚もしてダンプの運ちゃんになった。三十歳になって間もなく、ダースコは帰らぬ人となった。家族と河原でバーベキューをしていた時、溺れた子供を救おうと川に飛び込み、子供を救う代わりに自分の命を落としたのだった。見ず知らずの子だった。あの河原だった。蕪谷と最初に出会ったあの河原。僕と真理が手を握ったあの河原。
真理は中学卒業と同時に東京へ引っ越していった。表向きは父親の転勤だったが、親子ともども狭い町での噂に愛想が尽きたのだ、と僕は思った。真理自身がもう僕と顔を合わせたくないのだ、と。
「あのさ」真理が言った。
「何?」
「吉田さんのこと」
「うん?」
「ごめんね」
「ううん」
「私、潔癖すぎたんだよ」
「そうじゃない」
「潔癖っていうか、幼かった。それだけ」
「僕が、悪かったんだ」
真理が首を振った。
人目を避けながらも二人で会い始めて何度目かの時、僕は真理に話したのだった。吉田さんの家に泊まった時のことを。どうしても隠すことが出来なかった。真理の屈託のない笑顔を見ることが辛くて、手を握っても膜があるように感じられることが悲しくて。
真理は最初、目を見開いてびっくりした様子だった。
でもこう言ったのだ。
「岸田君だって、健全な男子中学生だから、あんなきれいなお姉さんに迫られたらどきどきだったでしょ」
真理は笑っていた。
「で、したいと思ったんだ? 吉田さんと」
「えっ?」
「キス、したいと思ったんだ? その時」
真理があまりに普通だったから、ちょっと気持ちが楽になってこう答えた。
「うん。一瞬だけど」
それでも真理は笑っていた。
その日、僕はとても楽な気分になっていた。家に帰ってからも、真理が許してくれた、そう思えて受験勉強頑張るぞ、と夜中過ぎまで勉強なんかもしたのだ。
でもそれで終わりだった。
その日以来、真理は明らかに僕を避けるようになった。廊下ですれ違っても僕を見なくなった。声をかけても無視するようになった。真理の家の前で彼女が出てくるのを待つこともあった。真理のお母さんに疎まれるのを覚悟で電話したこともあった。
それでも、戻らなかった。
卒業式の日、僕は思いきって真理に声をかけた。
真理は一瞬だけ僕を見てくれた。
すごく辛そうな目だった。
結局僕は徹夜して書いた手紙を渡すことができず、ポケットに押し込んだ。
「さようなら」
真理が言った。
「さようなら」
だから僕も言った。
それが最後だった。
「私、潔癖すぎだった」
車のボンネットにもたれて、真理が言った。
「ううん」僕は首を振った。
「今、思うとバカみたい」
「ううん」また僕は首を振った。
「正直に言ってくれたのにね。キスもしてないのにね。ただキスしたいって思っただけなのにね。それなのに、私、あの時は、世の中のすべてが信じられなくなったんだ。岸田君のことも吉田さんのことも。それでなくても蕪谷君のことも美保のことも、私、置き去りにしちゃったでしょ。どうしようにも何も出来ないで、そのことから逃げている自分を感じていて、すごく自分を責めていて親からも先生からも近所の大人からも冷たい目で見られて、岸田君だけが世界でたった一つの拠り所で、あの時の私のすべてだった。だから吉田さんとのことを聞かされた時、ホント、自殺しようか、ってそこまで考えた。今思えば、何てことないのにね。岸田君のことも吉田さんのことも許せなくて。岸田君のことも吉田さんのことも信じられなくなって。バカだよね。思春期ってすごく面倒臭い。私。岸田君とファーストキスしたかった。岸田君にもファーストキスでいてほしかった。
あの時は、岸田君の言葉が信じられなかった。
絶対にキスした、って思った。
キス以上のことも想像した。
ああ、ほんと、思春期って面倒臭いわ。
でも東京の高校に入ってすごく後悔した。何で岸田君と別れたんだろうって。何で許せなかったんだろうって。大人になっても引きずっていた。そのうち岸田君が結婚した、って誰かに聞いて、なんかすごく寂しくなって、でもある面ではほっとして。やっと過去を精算できたって。主人と会ったのもその頃で。結婚して二人の子に恵まれ、平凡だけど、やっぱり幸せなんだろうな、って日々を送っていて。人生ってわからないね」
「うん」僕はうなずくことしかできなかった。僕もまたずっと真理が心のどこかにいて、それを払いのけようと、大学を卒業して会社員になって幾つかの土地を転勤で回り、結婚して子供が出来て、平凡な家庭を築いてここまでやってきた。
「吉田さん、あれから外国に行ったんだよ」真理が言った。
「そうなんだ」
「あれ以来吉田さんに会っていないから、人づてだけど。彼女もいろいろあって、でも外国の人と結婚して今はたぶんイタリア」
「そっか」
吉田さんの顔は朧気にしか思い出せなかった。
「静かなとこだね」真理が言った。
僕と真理はダムを覗き込んだ。深い緑の水がそこにはあった。
ミチの故郷。
僕は大人になったのだろうか、と思った。
四十五歳だった。勿論大人だった。愛の見える大人になれたのだろうか、と思った。あの時、ヤマさんに話したような大人に。
僕は真理に一枚の便箋を渡した。
「『希望回復委員会』の看板の後ろにあった。蕪谷からの手紙だ」僕は言った。
岸田。あるいは坂下さんかもしれないが。
お前らがここにやってくるのは明日か? 一年後か? あるいは三十年後か? まあ、やってきてもこの手紙を見つけないかもしれない。それならそれで、それが運命ってやつで、俺はこの手紙が見つかっても見つからなくても、どっちでもいい。
おい。岸田。相変わらずカッコ悪いか? それとも少しはカッコよくなっているか?
謝らなくちゃならないことがある。
学校祭、行けず悪かった。
俺の作戦では行けるはずだった。でも悪者は行動が早い。俺と美保があいつらを巻いて、とにかく学校祭に間に合うようにと旅人町まで行くと、すでに学校の周りをやつらの手先がうろうろしていた。だから俺達は仕方なくその場を離れた。ああ、こんな言い訳、カッコ悪いな。だからこの手紙は一生見つからなくてもいいんだ。
そんなわけで俺達は現在逃亡中だ。カッコいいだろ。逃亡者だ。連絡したいが、悪者は侮れない。だからあえて連絡しない。まあ、そういうことだ。
美保はすごく元気だ。俺と美保は今から襲撃を開始する。これまたカッコいいぞ。闘うんだ。卵を五百個買った。いいか。五百個だぞ。カッコいいだろう。中途半場が一番カッコ悪いんだ。
それをあいつにぶつけてくる。今からだ。実はこの店の前で待ち伏せしてたんだが、あいつは今日はテレビ局だ、という情報が入った。だから今からテレビ局前で待ち伏せする。その方が都合がいい。テレビ中継されるかもしれない。その方がカッコいいって俺は思ったわけだよ。
静和に卵を思う存分ぶつけたら、すごく気持ちいいだろうな。これまで俺を苦しめてきた、ミチを苦しめたその想いもすっきりなくなるかもしれない。もちろんそれだけじゃほんとは足りない。本当は殺してやりたい。でも、岸田。おまえ、こう言ったよな。
俺に似合うのは殺しじゃなくて虹だ、って。
俺はその言葉に救われたんだ。岸田、おまえの言葉は、すとんと胸に落ちた。大ホームランだった。
だから俺は殺さずにすみそうだ。卵ですみそうだ。
だから俺は、あいつに思う存分卵をぶつけたら、こう言ってやるんだ。
「おい、静和。それでも俺はおまえのことを愛してるからな」って。
それが虹の彼方だ。
まあ、その後、静和に金を出させて外国へ行く。静和も連れて行く。喰えない男だが、あいつの情けなさを治せるのは俺しかいないからな。
とにかく俺と美保だったら何でも大丈夫だ。未来は明るい。安産のお守りさえあれば何だって出来る。
あ、それから美保。俺はこいつのことが好きだ。こいつといるととても心が静かになる。なんかミチと一緒にいるような気がしてならない。不思議だな。
そろそろ行かなくちゃならない。
まあ、そういうことだ。
俺と美保はこれから本当の旅人になる。
まあ、そういうことだ。
そうだ。写真の場所。俺は勘が鋭いんだ。地図で旅人町っていう地名を見つけた時、俺の勘がここだって言った。おまえと行ったダムの底を覗き込んだ時、俺の勘がここだって叫んだ。
ミチの故郷が見つかって、俺はすごく満足だ。
勘が鋭い者は大成するんだぞ。蕪谷家の家訓にあるんだ。
おっとそれからもうひとつ。
覚えているか。俺の言葉。旅人町で大切な何かを見つける、って言葉。
見つけたよ。
なかなか大切なもんだ。
結構嬉しいものだ。
それはな。おまえ達だ。
心をひとつにできるおまえ達だ。俺にとって、初めての友達だ。
ということで、じゃあそろそろ行く。
思い切り五百個卵をぶつけてくる。
では!
岸田誠、山田正義、棚田筋彦。坂下真理さん。
まあ、せいぜいカッコいい大人になってくれ。
ごっきげんよう! みなさーん!
読み終えても真理はしばらく言葉を発しなかった。
風がしゅわしゅわと僕達の間を吹き抜けていった。
「あのさ」ようやく真理が言った。
泣いてはいなかった。僕なんか蕪谷の字を見た途端、涙腺が緩んだのに、結構センチメンタルなのは男のほうなのかな、なんて意外にすっとしている真理を見て思った。
「頭にくる」
「えっ?」
「だって、何で連絡してくれないの。蕪谷君も美保も。もう三十年だよ。いくら何でも、もう大丈夫でしょ。なのに、なんで」
そうか。そういうことか。確かにそうかもしれない。
「ぶん殴ってやりたい」
「えっ?」
真理が、真理にしては初めて、というぐらい物騒なことを口にした。
僕は戸惑うのみである。
「抱きしめてやりたい」
真理は便箋を愛おしそうに畳むと僕に戻した。
「たまに思うんだ」真理が言った。
「何を?」
「美保と蕪谷君って、夢だったんじゃないか、って」
「夢…」
「時が経つほど、そう思えてくる」
真理がコンクリートの柵に寄りかかり、ダムを覗き込んだ。
「二つの意味があるんだ」真理が言った。
「ひとつはほんとに夢だったってこと。彼らは、実はいなかったってこと。
もうひとつは私達の夢だったってこと」
「…私達の夢」
「美保と蕪谷君って、私自身だったってこと。岸田君自身だったってこと」
真理が僕を見た。
「手、繋ぎたい」
真理の手は、華奢で温かく、少しひんやりしていた。
その手が一瞬震えた。
三十年前と同じだった。
真里の涙が一粒、頬を伝ってダムの緑の水に吸い込まれていく。