WEB/STORY「哀しき70’s Kids」ch.7
「1970年の思い出。そしてまたもや染谷からの告白」
『道をなくした者』クンの葉書については、蕪谷の家を訪問した数日後、さっそくヤマさんに報告した。
話を聞き終わったヤマさんは、おごそかに言った
「マー。それは、俺の鋭い勘によるとだ。それは、確かに、蕪谷だ」
WEB/STORY「哀しき70's Kids」ch.6 「すごいことが起こった。奇跡のようなこと。そして謎は深まる」 いやあ、暑くなったね、そろそろ梅雨も終りだ[…]
WEB/STORY「哀しき70's Kids」完全オリジナル未発表小説1975年。。僕たちは、たったの中学3年生だった。。。当時のヒットソングとともにお届けする青春群像[…]
僕はおごそかにうなずいた。
ただし心の中では、俺だってそんなの、わかるわ、とつぶやいていた。
「まあ、とにかくだ。あの写真のコピーを私の父親であり旅人町長でもある山田半次郎の秘書に渡してある。これはすでに旅人町政治案件だ。捜索のプロが場所を特定してくれる手筈になっている。見つかったも同然である。だからその、蕪谷の謎は、置いといて、だ。俺達は、とにかく、バンド計画を粛々と進めようではないか」
そうか。政治案件になっていたのか。
それなら一件落着である。数日を待たずに場所は特定されるのではないか。そうすれば大手を振って蕪谷のドラムでバンドをドライブさせることができる。
胸をほっと撫でおろした時、ヤマさんが、僕の目を覗き込んだ。
「よう、マー」
「なんだ、ヤマさん?」
「ホントに九州の中学生っちゃ怖いのか?」
「あの吉田の言うことだからなあ、それもどうだろな」
「問題は、ダースコだろ」
「そうだ。やつが修学旅行でどんな格好してくるか、それが問題だ」
ここ最近のダースコは、また一段と不良じみてきたのだ。特に服装がずいぶん変わってきた。
高いカラー、丈が長く袖のところがチャックになっている、いわゆる中ランと呼ばれる学生服を着てボンタンと呼ばれる太いズボンを履きだしたのだ。ベルトは白のエナメル、学生カバンはペッチャンコ、靴はやはり白のエナメルかかと潰し、といった格好をしだしたのだ。いわゆるツッパリファッションである。
もちろん佐島一派もそうしたカッコに着手し始めていて、先生達と小競り合いをしていた。ただし佐島一派と敵対するダースコがたった一人でツッパリ始めたことに、実は深い意味があった。
あの佐島が、ダースコに対しては、ただ遠巻きににらみつけているだけなのだ。
「三谷だ」と僕。
「そのとおり」とヤマさん。
「ダースコのバックには三谷がいる。だから佐島もおいそれとダースコに因縁をつけられないってわけだ。それはいいんだが、三谷とつき合いだしてからダースコは変わっちまった。だから俺はダースコに、意見してやったんだ。あの三谷は、タチがよくねえ。暴走族の親分だしヤクザの下っぱでもある。シンナーもやっている。それになんといっても凶暴な男だぞ、と。ダースコ。おまえには夢があるだろ。バンドもそうだしアクションスターになるのもそうだ。受験もある。あんなやつらと遊んでると、どんどんその夢は遠ざかってしまうだろ、と。お母さんも心配するだろ、と、俺はダースコにこの間、意見してやった」
「ダースコは、なんて?」
「わかった、とは言ってたがな」
学校から帰ってくるなり、机の上に数学の自由自在と大学ノートを広げ、ラジオのスイッチを入れた。『ミュージックジョイ645』。
いつものパターンである。もちろん数学の自由自在は突然母親が部屋に入ってきた時の言い訳である。
さっそくラジオから曲が流れてきた。『サルビアの花』という歌だ。
ざわついた心がすうっと落ち着いた。いい歌だと思った。
何度も言うようにヤマさん好みの日本のフォークは好きになれない。
けれど例外としてこの頃の日本のフォークはけっこう好きだった。この頃というのは1970年前後のことである。
五つの赤い風船とか赤い鳥とか高田渡とか遠藤賢司とか、この『サルビアの花』の早川義男とか。
これらの歌には、ざわざわとしたものを感じるのだ。
洗練されていない哀しみ、といったらよいか。そんなものを感じてしまうのだ。
ジョン・レノンに通じる哀しみ、といったらよいか。
実は1970年には少し特別な思い出があった。
こんな思い出だ。
その頃、僕達のブームは虫取りだった。
朝早く山に入り、目星をつけていた木を揺すったり蹴ったりすると、クワガタやカブトムシが落ちてくる。僕達はそんなふうにして捕まえた虫を飼育したり、交換したり、闘わせたりして遊んだ。
特にオオクワガタを捕まえた日は、一日中それを眺めながら幸福感を味わったりもした。
その日も僕は四時に起きて虫取り山に行った。なぜかひとりだった。ヤマさんもダースコもどういうわけかいなかった。理由はよく覚えていない。とにかくその日に限って僕は、ひとりで山に入っていった。
雑木林に男がいた。僕はぎょっとして立ちすくんだ。ここで人間に会うのは初めてだった。
男は長髪で黒縁の眼鏡をかけていた。汚いシャツとジーンズを履いていた。男もぎょっとしたようだった。僕と男はけっこう長い間、身動ぎもせず向かい合ったままだった。
しばらくして男が何か言った。細く小さな声だったのでよく聞き取れなかった。僕は「なに?」と訊き返した。男はどうやら、飲み物が欲しい、と言ったようだった。そういえば彼はずいぶん憔悴しているように見えた。
僕はいったん家に戻って麦茶を入れた水筒と昨日の残りの御飯で作った握り飯を用意し、彼のところに持っていった。家族には知られないようにした。どうしてそう思ったのか、今となってはよく覚えていない。ただ男のことは秘密にしなければ、この男と関わりを持ったことを大人に知られると怒られてしまう、そんなふうに思ったことだけは覚えている。男の発する空気が普通ではなかったからだ。
男は貪るように僕の持ってきたものを食べた。最初の恐怖はすでに興味へと変わっていた。彼が食べ終わるまで僕は彼の横に座ってその様子をじっと見ていた。
これがダイガクセイなのかもしれない、と思い始めていた。テレビに出てくるダイガクセイ。ヘルメットを被り顔を白い布で覆い、棒や石ころを持って警察や機動隊に向かっていく人達。父親が、絶対にああいうダイガクセイにだけはなるな、とにがにがしい顔で言っていたダイガクセイ。
というのも彼の脇に白いヘルメットが置いてあったからだ。
食べ終わると男はタバコに火をつけ、言った。
「おい、今日俺とここで会ったことを誰にも話すんじゃないぞ」
僕はうなずいた。もちろん話す気はなかった。すると男は、今度は少しばかり優しい顔になり、「握り飯、おまえが作ったのか?」と訊いた。僕はまたうなずいた。
それからしばらく男はその場に座り込んでいた。よほど疲れているらしかった。僕は思いきって尋ねてみた。
「ねえ、お兄さん、ダイガクセイ?」
「なんでそう思う?」
「だって、ヘルメット、持ってるから」
「ああ、これか」と男は無表情な瞳でそのヘルメットを見た。
「お兄さん、疲れているみたいだ」僕の言葉に男は少し笑うと言った。
「疲れてる? 確かに疲れてるかもしれないな」
「どうして? どうして疲れてる?」
男はタバコの煙を吐き出すと、言葉も吐き出した。
「大人になるということは疲れる、ということなんだ」
疲れるのだったら、大人になんかなりたくないな、と僕は思った。
「というより、考える大人になるということは疲れるということなんだ」
「考える大人?」
「そうだ、考える大人だ」
「でも大人はみんないろいろ考えるんじゃないの?」
すると彼は少し笑った。案外幼い笑顔だった。
「まあな。これまではな」
これまでは?
「でもな、これからは大人になればなるほど考えることを止めなくちゃいけなくなる。そういう社会になる」
「でもそれって、ヘンじゃない? 大人になればなるほどいろいろ難しいことが考えられるようになるんでしょ」
「そうだ」
「だからヘンでしょ」
「そう、ヘンだ」
「じゃあそのヘンを直せばいいじゃない」
すると男はまたまた寂しく笑ってこう答えた。
「直せないんだよ」
「どうして?」
「あまりにも巨大だからさ」
「何が?」
「システムが、さ」
「システム?」
「そうだ、あまりにも巨大なシステムなんだ。だから俺はもう、疲れた」
男は、負けたんだ、とつぶやくと、ゆらゆら立ち上がり森の奥に向かって歩き出した。
ヘルメットを忘れていることに気がついた。急いで男を追いかけた。
ようやく追いつきそのヘルメットを差し出すと、男は力なく言った。
「ぼうず、ありがとな。でもこれはいらないんだ。これは、もう、いらない。悪いがどっかに捨ててくれ」
その日の夜のことだった。
回覧を持ってきた隣のバアさんが僕の母相手にこんな話をしてくれた。
今日、この近くで自殺者が出た、と。自殺者は東京のゲバルト学生だった、と。
まったく迷惑なことだ、と。
次の日早起きをして、家に持ち帰ったヘルメットを片手に昨日男と会った場所に行ってみた。
誰もいなかった。
蝉の音が間近かで聞こえるだけだった。
僕はしばらく蝉の音を全身で受けると、男が座っていた場所にヘルメットを置いて、もと来た道を走って戻った。
そんな思い出である。
自殺したゲバルト学生と僕が出会ったダイガクセイが同一人物だったかどうかは、今となってはなんとも言えない。その確率は高いようにも思えるし、僕が話した人間がそんなに簡単に死ぬかな、とも思ってしまう。だって彼は握り飯を食べたのだ。生きる力を生み出す握り飯を。
ただそれ以来、僕は虫取り山にいくことをパタッと止めた。同時に彼の姿を心の奥底にしまいこんで、忘れた。
それでも何かの拍子に、森の奥に消えていった彼の後ろ姿と意外に軽かったヘルメットの妙な白さが僕の脳裏をかすめるのだった。
さてさて、そんなことを考えているうちに、ラジオでまたまたDJが葉書を読み出していた。
するとまたしてもマコトという名前が耳に飛び込んで来た。
この前とまったく同じ展開である。当然僕のアドレナリンは急上昇しはじめるのである。
マコト君、聞いていますか?
キミのファンから二通目です。
エー、では読みましょう。
M・Sさんからです。15才、中学三年生。
あー、そろそろ受験勉強が大変になる頃だね。
でも、その前に修学旅行があったか。
エー、では、読みます。
もうすぐ修学旅行です。
三日間もマコトくんと一緒にいられると思うと、今からわくわくして夜も眠れません。
おっちょこちょいで、そんなに勉強はできないけど、私はそんなマコト君が大好きです。
いつも何かに向かって、突き進んでいるから。
リクエスト曲は、小坂明子の『あなた』をお願いします。
~もしも、わたしが~いえを~たてたな~ら
頭がボーとしている。
まったくM・Sとは、いったい誰なのだろうか?
本当に染谷美保なのか?
すると染谷美保は、この歌のように小さな家を建てて僕と一緒に住みたい、そのように解釈してもよいのだろうか? 大きな窓と小さなドアのある家に?
ただ僕の希望を言わせてもらえば、できればドアも大きくしたい。ダースコはともかくヤマさんが遊びに来た時、かがんで入らなければならなくなるからだ。
それはともかく、おっちょこちょいで、そんなに勉強はできない?
それなら俺ではないな。
いや。
やっぱり、俺かも。
うーん。
ちょっと複雑な心境だった。
とまあ、そんなことよりM・Sさん、修学旅行と言ってたな。
確かにそうだった。
僕達はもうすぐ修学旅行に行くのだったのだ。
そうだった。
「僕たちは修学旅行に旅立つ。蕪谷は、独り、ドラムを叩く」
そういうわけで瞬く間に時は流れ、修学旅行当日の朝。
空は真っ青に晴れ上がっている。力強い朝日を浴びながら僕とヤマさんはダースコの家へと急いでいる。
「よう、マー、あいつ来るかな?」ヤマさんがそう訊いてきた。
「あいつ?」
「蕪谷だよ」
「来ないな。来るわけが、ない」
蕪谷は、衝撃的な転校初日から、一度も登校していない。
あの蔵で、いつも、たった一人でドラムを叩いている。
ヤマさんは蕪谷から預かった例の写真を取り出した。
「しっかし、よお、意外に難しい。この捜索は。我が父、山田半次郎町長の有能な秘書がお手上げだそうだ。誰も知らない、ということだ。親父も子供の探偵ごっこに忙しい秘書を使うな、と最後通牒を言い渡してきた」
「しっかし、いったい、この写真には、何があるんだ。なんで蕪谷はこれにこだわってるんだ」僕は言った。
ヤマさんは首を振ると、
「まあ、とにかく修学旅行が終わったら俺とマーで捜し出そう。じゃねえとバンドも始まらねえ」と言って、歩を早めた。
そんなことを話しているといつしかダースコの家についていた。
ダースコの家は母ひとり子ひとりという母子家庭である。
同じような造りのちっぽけな市営住宅が十棟ほど立ち並ぶその一番奥がダースコの家である。
山のふもとに建つダースコの家は昼でも日が差さない。家の前の空き地には廃車になったクルマや錆びた自転車や日本酒のビンなんかが乱雑に捨てられている。
それでも彼の家の中はいつもこざっぱりとしていた。狭い玄関には花が生けられていた。
ダースコの母親はビルの清掃員をしている。それはそれで僕は立派な仕事だと思うのだが、ダースコは母の仕事を恥じていた。自分の住む家を恥じていた。貧乏を恥じていた。もちろんそんなこと口が裂けても言わなかったが、僕もヤマさんもそんなダースコの気持ちを密かに感じとっていた。
家から出てきたダースコ、案の定、というか予想以上にすさまじい格好をしていた。中ランボンタンに、なんとサングラスまでかけている。
「この格好、もう恥ずかしくて恥ずかしくて」
ダースコの母親が吐き捨てるように言った。
どうやらダースコは母親と今の今までケンカをしていたらしい。ダースコ、ぱんぱんの膨れっ面で母親を振り切るように突然走り出してしまった。
恨めしそうな母親を置いて僕達は慌てて後を追うのだった。
駅に着くと大半の者がやってきていた。
みんな旅行かばんが真新しい。最近流行りのマジソンスクエアバッグを誇らしげに持っている者もちらほら見える。
僕はササっと視線を動かし染谷を探した。
染谷は坂下と一緒にいた。笑っていた。素敵な笑顔だった。これから三日間、染谷と一緒にいられると思うと胸が熱くなって涙が出そうになった。
そんな一時の多幸感も吉田の怒鳴り声によって蹴散らされてしまった。
まったく教師という人種は間の悪いやつが多すぎる。吉田に怒鳴られていたのはもちろんダースコだった。佐島一派は、今日は普通の格好できていた。先生に怒られることもあるが、やはり九州の中学生が怖いのだ。基本、根性のないやつらなのである。
蕪谷は当然のようにやってこなかった。ダースコは怒られてさらに膨れっ面をパンパンに腫らしていた。
そうして僕達旅人南中学三年生はさまざまな思いを胸に二泊三日の修学旅行に出発するのであった。
そんなふうに波乱含みで始まった修学旅行ではあったが、新幹線の中でトランプをしたりオセロをしたり追いかけっこをしたり写真を取り合ったりションベンにいったりとガサガサ過ごしているうちに、ようやくダースコの顔に笑顔が戻ってきて、僕もああ、修学旅行なんだな、となんとなく気持ちが高揚してきた。
京都でもつつがなく名所旧跡をめぐり、僕達は予定通りの時間に旅館へ落ち着くこととなった。
旅館は京都の町の真ん中にあるうなぎの寝床のように細長く背の高いホテル式の旅館だった。部屋は京情緒のカケラもない八畳間で、窓からの景色も、格子戸をくぐり抜け、なんて風景は見たくとも見ることのできないただの飲み屋連なる裏通りである。僕は京都の旅館と聞いてなんとなく竹林に囲まれた静かな日本式家屋をイメージしていたので少しガッカリしていると、ダースコがニタニタしながら近づいてきた。
「よお、いいか、マー、おまえにだけは、すっごい情報を教えてやる。とびっきりの情報だわ、すげえぞ。メンタマ飛び出てキンタマ縮み上がっぞ。聞きたいべ?」
ダースコ、目元をダラーと下げて、いかにもいやらしそうである。
「どうした?」
「この旅館は、よ、女風呂が、よ、覗けんのよ」
「なに!」僕は思わず大声を出してしまった。ダースコがあわてて僕の口を塞ぐ。
「去年ここ泊まった先輩から聞いたんだから確実よ」
「三谷か?」
「まあな」ダースコ、鼻をふくらませいかにも得意そうにうなずく。
「でも、ウソっぽいな。ダースコ、よくウソつくからな」
「バーカ、そう思うならマー、おまえはいいわ、誘わねえわ」
「ヤッヤッ、ウソのはずない、ダースコがウソつくはずないって」
ダースコの話はこうだった。
この旅館の風呂は地下一階にあり男湯と女湯がボイラー室を挟んで隣同士になっている。ボイラー室にはなぜか小窓がふたつあり、そこからそれぞれ男湯、女湯を覗ける仕組みになっている、という。
「本当か?」僕はもう一度訊いた。あまりにも信じ難い話だったからだ。
「信じないなら、いい。俺、ひとりで行く」
「信じないっていうか、信じがたいっていうか。まずなんでそんな覗き窓がある? おかしいだろ」
「そりゃ、旅館の主人が覗きたかったんじゃねえか」
そんなバカな、と言おうとしたが、ダースコにまたヘソを曲げられては困るので笑顔で、そうだな、と相槌を打った。
「まあ、とにかくよ、そこからだとよ、本当にバッチリなんだとよ。もうみんなスッポンッポン誰もかれもがスッポンッポン、胸はプルプル、オマタスカスカ、おお、おお、ハアハア興奮してきたぞよ」と話すダースコの目がギラギラしはじめ、当然息も荒くなってきた。なぜか僕も息が苦しくなってきた。
「よお、ハアハア、ダースコ、ハアハア、すると、よお」ダースコも犬みたいになってきた。
「ハアハア、そうよ、そうなのよ、ハアハア、するとよお」
「染谷もか!」
僕とダースコは思わず同時に叫んでしまった。
こんなことがあっていいのだろうか。染谷の裸。そんなものを見てもいいのだろうか。染谷美保の生まれたままの姿。神への冒とくではないのだろうか。とは一瞬思ったもののやはりそこは男、スケベ心がそんな良心を軽く吹き飛ばしたのはいうまでもない。
ヤマさんも一緒に行くことになった。最初ヤマさんは旅人南中生徒会長として反対したのだったが、ダースコが、ヤマさん、いいのか、こんなチャンスもう一生ないぞ、と説得され、じゃあおまえらを監視するために俺も行く、という論理にならない論理で賛成したのだった。
まず情報を仕入れることとした。ヤマさんに言わせると、何事も「段取り八分」なのだそうだ。つまり下準備こそが重要なのである。
作戦は以下のとおりである。
入浴時間は男子が先で女子が後となる。僕達が出る頃、女子が風呂に入るのだ。これは好都合であった。この順番なら女子が入ってくる前にボイラー室に侵入しやすい。が、問題はそこだった。ボイラー室は当然鍵がかかっている。鍵を入手しなくてはこの作戦は根本的に成立しないのである。しかしこの件についてはダースコ、自信満々だった。去年三谷が使った手がある、という。それはこうだ。
まず旅館の人にこう告げる。あの、先生が、ボイラー室を点検したいそうです、というのも僕ら寒いことの子供だから風呂の温度、少し上げたいって、だから鍵取ってこいって、そう頼まれたんです。頼む時はなるべく気のよさそうなオッサンを選ぶ。頼むやつは真面目そうで印象の薄い、できるだけホッペタの赤いやつ。相手の目をしっかり見て、堂々と頼む。するとオッサン、なんの疑いもなくボイラー室の鍵を渡してくれる、という計画である。
本当にこんな杜撰な計画で鍵を借りることができるのか、僕もヤマさんもすこぶる疑問だったのだが、でも去年はこの手で見事鍵を入手したというのだから、京都人は疑い知らぬ善良な人達ばかりなのかもしれない。
「やっぱ、マーだな」ダースコがそう言って僕を見た。「一番真面目そうで一番印象が薄そうでホッペタ真っ赤といえば、やっぱ、マーだ」
そんなわけで僕が鍵を入手する役となってしまった。
お次の難関は、やはり教師対策であった。
入浴時間には教師がそれぞれ男湯、女湯の前に立つ。風呂の様子を監視するのだ。その監視をすり抜けどのようにボイラー室に入るか、それが次なる問題であった。しかしここでもすでにダースコは計画を練っているという。まずダースコが脱衣場からバスタオルを巻いただけの格好で一目散に部屋を目指すのだ。当然、監視役の教師達はダースコを追いかける。その隙に僕とヤマさんがボイラー室に忍び込み女湯を覗く。ダースコの一件が収まった頃、今度は僕が同じようにストリーキングをする。するとまたまた教師が僕を追いかける。その隙に今度はダースコが女湯を覗く。これで三人とも聖なる女体を拝み見ることができる。
「完璧だ」ダースコは強くうなずいて得意げに僕達を見た。「去年の三谷さん達も、名づけてストリーキング大作戦によって教師の目をごまかしたそうだ。な、完璧な計画だ、何の遺漏もない」ダースコにしては随分難しい言葉を使うのも、自信の現れと見てよいのだろうか。しかし本当にこんな子どもじみた計画で成功するのか僕もヤマさんも極めて懐疑的だったのだが、今僕達の思考回路は風呂場のモヤのように曇りきっていたので、まあ、とにかくその線でいこう、ということで話がまとまった。
さっそく地下の風呂場フロアに行ってみた。実地検分である。人影はない。白々と明るい蛍光灯の下、青いのれんと赤いのれんの下がった引き戸がふたつ、のれんに挟まれて問題のボイラー室のドアがあった。
図にするとこうなる。
僕達は顔を見合わせニヤリとした。というのもそのボイラー室と女湯を仕切るように、なんともうまいことに藤の大きなつい立てが置いてあったのだ。つまり女湯を見張っている教師から僕達の行動が見づらくなっていたのだ。
ヤマさんがポンと手を打った。
「つい立て、よ」
「えっ?」
「だからこれと同じつい立てをもうひとつどこかから捜してきて男湯とボイラー室の境に置けば、監視の先生の死角となりボイラー室にやすやすと潜り込むことができる。つまりストリーキングはしなくても済むってことよ」
「名案だ」僕もダースコも声をあげた。誰だってできればストリーキングはやりたくない。
「でも、そんなに都合よく同じつい立てがあるか?」ダースコ、なかなか鋭い疑問。しかしヤマさん、自信ありげにうなずくと言った。
「いや、ある。必ず。この旅館のどこかに」
「して、そのココロは?」
ヤマさん、ニヤリと笑うと目の前の床を指さした。僕とダースコはそこを見た。けれど何もなかった。ただの、リノリウムの床だった。
「ヤマさん」僕は言った。
「何もない」
が、ヤマさん、またまたニヤリとする。
「マー、よく見てみろ」
僕はもう一度床を見た。けれど、やっぱり何もなかった。全然なんにも、ただの普通の床が広がっているだけだった。
するとヤマさん、まるで御請託を授ける巫女のようにおごそかに言った。
「いいか、おまえら、こうやって見てみろ」
ヤマさんは腰をかがめて床を透かしてみた。僕とダースコも同じ格好をしてみた。するとリノリウムの床がわずかに丸くへこんでいるのが見えた。しかも四つ。
「どういうこと?」
「ここにもこのつい立てと同じものが置いてあった、ということだ」そう言いながらヤマさんは女湯側のつい立てを持ち上げてそのへこみのある場所に置いてみた。するとそのへこみとつい立ての四つの脚がピタリと重なった。僕とダースコは、おお、と声にならない声をあげた。でもどうして、それを?
「はは、光の加減だよ。僕は微妙な光の具合でも見分けられる目を持っている。それから人間の心理だよ。つまりシンメトリカルな構造を持つこのフロアにおいて唯一つい立てだけがシンメトリックではない。これはおかしい、というのが発想の原点だよ。ははは」
というようなことをヤマさんはたんまり訛を効かせて、もっと簡単に言うのだったのだが、その時のヤマさんの言葉は、僕にはまるで名探偵の言葉のように聞こえたのである。
「で、そのつい立てはどこにあるって?」
ヤマさん、またまた悠然と笑った。「いいか、このつい立てはけっこう重い。だから地下フロアのどこかにあると考えるのが普通だ。しかし、その考えは甘い」なんかヤマさん、完全に神がかり的になってきた。これも覗きを絶対に成功させたいという執念のなせる技なのだろうか。
「いいかい君達、どうしてつい立てを動かしたかを考えるんだ。つまり人間の行動にはすべて動機がある。このつい立てを動かした者も理由もなく動かしたわけではない。というのもこのシンメトリックで整合性あるこのフロアの、その秩序を意味もなく破壊するという行動はある意味、非常にパワーを要することである。するとつい立ては、ある目的を持って動かされた、という結論に至る。そうだね、ワトソン君。次に考えなくてはいけないのは、ではなぜつい立てが動かされたか、ということである。つい立てを必要とする場所はどこか、ということである。まずこのへこみを見てほしい。このへこみにゴミは付着してない。ということはつい立てを移動してからまだ日が浅い、ということだ。で、結論だ。このつい立ては最近動かされた。なぜか? 理由はいたって簡単。我々の修学旅行だ。では、どこに? 修学旅行生を受け入れるにあたってつい立ての必要な場所はどこか? 私はそう考えを巡らせた。当然結論を得た。どうだい? 凡庸な君達でもここまで説明すればもうお分かりであろう、旅館の中にあり、かつ修学旅行生に見られてはいけないところ、そう、それはつまりゲームコーナー、であると」
というようなことをヤマさんは、訛混じりに、もっと単純に言ったのだった。つまりこんな感じで。
「だから、おまえら、わかったか? つい立てはだな、必要だからどっかに動かした。それも最近だ。なぜならここにゴミついてねえだろ。場所はちゅうと俺らに見せたくないところ、つまり、ゲームコーナーだわ」
最初の半分である。けれどこれでも十分意味が通じる。頭のいい人は単純な人より倍、面倒臭い人生を送っているのである。
僕達は急いでゲームコーナーを捜した。ゲームコーナーは三階の隅にあった。そこに確かにあったのである。つい立てが。
僕達は急いでつい立てを地下に運び、所定の場所に置いた。へこみと脚は完全にマッチしていた。
これでストリーキングをしなくてもどうやら済みそうだった。
続いてボイラー室鍵奪取作戦を開始することにした。
まずは気のいいオッサンを捜さなくてはならない。ということで一階のフロントから攻めることにした。が、ここには気のいいオッサンどころか、いかにも底意地悪そうなオバはんが鎮座していた。こいつはどう見ても、パス、である。二階と三階は一般客が泊まっているらしい。閑散としていて、ここにも気のいいオッサンは影も形もない。
続いて四階に上がる。我が旅人南中学三年の女子が泊まっている階である。そこは別天地であった。黄色い歓声が廊下まで飛び交い、さらに赤ジャージ姿の、花も恥じらう十五の乙女達が大挙かっ歩していたのだ。
言い遅れたが、僕達は旅館に着くとすぐジャージ姿になった。これが決まりであった。今日はこのジャージ姿で寝るのである。ちなみに男は青、女は赤のジャージである。
僕達が四階を素通りしようとすると向こうからやってくる者がいた。坂下真理であった。染谷美保もいた。
「な、な、なんだい、真理、俺らは決してやましいことなんか、これっぽっちも考えてねえぞ」彼女達の顔を見て思わず逆上した僕が意味不明なことを口走っても、「何、言ってんの。岸田君」と坂下はさすがに京都でも落ち着いていて、染谷は京都でも、極上の美少女なのであった。
時間は刻々と過ぎていく。
とにかく一刻も早く気のいいオッサンを捜して鍵を入手しなければならないのだが、最上階の七階までいっても気のいいオッサンなんか、どこにもいないのである。
僕達はあせっていた。夕食が済むとその後すぐに入浴なのだが、夕食時間はもう目の前に迫っている。とうとう僕達は鍵を入手することなく地下まで戻ってきてしまった。さきほどみんなで運んだつい立てが仲よくふたつ、ボイラー室のドアを隠すように並んでいる。
「しかし、気のいいオッサン辞めちまったとちゃうか?」僕はダースコにそう訊いた。ダースコも焦り顔ながらも「そんなこと、ないと思うけどなあ」と発言だけはまだまだ強気である。「去年はうまくいったって三谷さん、自慢してたんだけどなあ」
「でも、気のいいオッサンと気の悪いオッサンって、いったいどうやって見分けるんだ」と僕がそうつぶやいた時、ヤマさんが大声を上げた。
「開いてる!」
「え!」
「だから、開いてるんだ。ここの鍵が」そう叫んでヤマさんはボイラー室のドアを開けた。確かにドアは開いていた。なぜかは知らぬが開いていた。思わず僕達は顔を見合わせた。ヤマさんがニヤと笑った。ダースコもニヤと笑った。だから僕もニヤと笑った。そして三人はかたい握手を交わすのだった。
早速ボイラー室に入ってみることにした。中は思ったよりも暗かった。ボイラーの確認窓がオレンジ色に光っていて、それが唯一の明りだった。暗闇の中、手探りで進んでいくと確かに壁の左右にひとつずつ、小さな窓があった。覗き穴といってもよいほどの小さな小さな窓だった。本当にあったのだ。
高鳴る動悸を抑えつつ僕は小窓に目をつけてみた。すると見えたのだ。大きな湯船と広い浴場がはっきりと見えたのだ。湯船には湯が溢れるほど張ってあって湯気も随分立っていたけれど、まだ誰も入っていなかったけれど、くっきりすっきり、すべてが見えるのだった。
「なんで鍵、開いてたと思う?」
夕食の時間である。食べ盛りの中学生が大広間にズラーっと並びそれぞれのお膳をつついている中、僕がハンバーグを口に入れたところで隣に座っていたヤマさんがひそひそ訊いてきた。
「ボイラー担当のオッチャンが鍵かけんの、忘れたんだろ」僕はそう言うと今度は赤いスパゲティに手を伸ばした。が、ヤマさんは、いや、匂う、とつぶやきながらハシを置いた。「なぜ、開いていたんだ?」
「まあ、いいじゃんか。どんな理由があるにせよ、とにかく開いてたと、俺達はついていたと、それだけよ。その事実を大切にしようぜ。なあ、ヤマさんよ」
というわけでつつがなく夕食も終わりいよいよ待ちに待った入浴の時間となった。緊張と興奮の高まりつつある自分に対して、落ち着け落ち着け、と言い聞かせながら脱衣場へと向かう。案の定男子浴場の前に、あの単純暴力教師吉田が仁王立ちしていた。だが監視は吉田一人だけ。女子の方には誰も立っていない。これはうれしい誤算であった。僕とヤマさんとダースコは顔を見合わせニヤリとするのであった。
それからはもうテンションは上がるのみである。すばやく裸になるとすぐさま湯船に飛び込む。じわっと肌を締める熱い湯が気持ちよい。するとまたもや頭の中で妄想が渦巻きはじめた。とにかく十数分後には、この世で一番美しく一番神々しいものを拝むことができるのだ。そんなことを考えていると自分の体の一部に異変が生じていることに気がついた。僕はみんなに気づかれないようにそろっとタオルをその上に乗せた。が、このままじゃカッコ悪くて外に出られない。とにかく気持ちを落ちつかせなければ。仕方なく勉強のことを考え出すと隣のヤマさんもなにやらブツブツつぶやいている。イイクニツクロウカマクラバクフ、ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ、フジサンロクニオオムナク。みんな苦労しているのだ。
どうにか自分の体を落ち着かせ風呂から出ると僕達は他のみんながいなくなるのを待った。しばらくするとようやく脱衣場には僕とヤマさんとダースコの三人だけとなった。
「さあいよいよ決行だ」ヤマさんが言った。僕とダースコは大きくうなずいた。ダースコが偵察隊として廊下の様子を探りに行く。が、血相を変えてすぐさま戻って来た。
「い、いない!」
「なに!」
「いないんだ! あの吉田が、いない!」
急いで廊下に出る。監視役の吉田が、確かにいない。
もう女子は全員脱衣場に入ったようだった。キャーキャー騒ぐ声が聞こえる。僕達は顔を見合わせるとニヤリとし、かたく握手を交わした。
三人でボイラー室に侵入した。中は前にも増して暗かった。というのも前回ライトの役割を果たしていたボイラーの火がすでに消えていたからだ。僕達は真っ暗な闇を手探りで進んだ。目指すは例の小窓である。先導役は僕。続いてヤマさん、しんがりはダースコである。はっきりいって体全部が心臓になったみたいである。気持ちを落ち着け壁を伝いそろそろと前進。後ろでヤマさんとダースコの呼吸音が聞こえる。それもすごく荒い。彼らもまた体全部が心臓になっているのである。
が、もうすぐ覗き窓、というところで僕は予期しない事態に襲われた。柔らかいものに触れたのだ。それはぐにゃりとして生温かく、かつ不吉な感触であった。しかもそのぐにゃりは僕が触れた瞬間、まるで自分の電気に感電した電気クラゲのようにビクッ! と大げさに飛び跳ねたのだ。もちろん僕も自分の電気に感電した電気クラゲに感電した哀れな溺水者のように思わず大声をあげてしまった。
「わ!」すると電気クラゲも大声をあげた。
「わ! わ!」その感電クラゲはなんと人間だった。しかも…。
「よ、よ、よ、吉田、いや、吉田先生!」
「お、お、おまえら、ここで何、やってんだ!」吉田の声も慌てふためいている。
「せ、せ、せ、先生こそ、な、何やってるんですか!」
「い、い、いやあ、まあ、その、な、ほら、み、み、見回りだ。見回り。そうだ、見回りだ。それよっかお、おまえらこそ、どうしたんだ!」
「えー、だから、その、えー、つまり、僕らも、み、み、見回りです、見回りー」
結局僕達のこの邪心に満ち溢れた、けれど成功していればたぶん一生の宝となったであろう計画は目的を達することなく挫折したのであった。世の中、そうそううまい具合に事は運ばないという深遠なる宇宙の真理に、僕達は一五の春に、ちょっとばかし触れる幸運と悲運に浴することができたのである。
次の日は奈良見学だった。平等院鳳凰堂を十円玉と見比べ、奈良公園でシカのフンを見、奈良の大仏のパンチパーマに感激し、バスに乗り、降り、そんなふうにつつがなく見物を終え夕刻には京都に戻ってきた。
ダースコは昨日の打撃から立ち直れないでいた。
「しかし、クッソ、あのスケベ教師め、絶対許さねえ、教育委員会に訴えてやる。あいつがもし女子の裸を少しでも見たんなら、犯罪だ。絶対許さねえ、新聞に投書してやる。大体が覗きをやろうなんて性分が気にいんねえ、チキショー!」と自分を棚に上げて怒りまくっている。ダースコはこの修学旅行で一番楽しみにしていたのが覗きだったのだ。まあ、その気持ちはすごくよくわかるが。
夕食を食べ終わると新京極に繰り出してお土産を買った。ヤマさんはペナントとおまんじゅうを、ダースコは木刀と手裏剣を、それぞれ買った。
僕はというと、家族におたべと八つ橋を、自分には日めくりカレンダーを、少しばかり迷って、蕪谷に、お守りを買った。
その日の深夜。修学旅行最後の夜ということで、みんなそれぞれ消灯時間になっても枕投げをしたりトランプをしたり怖い話で盛り上がったり女子の部屋に男子が行ったり男子の部屋に女子が来たり缶ジュースを買いに行ったりお菓子を食べたり佐島達なんかはタバコを吸ったり酒を飲んだり、僕とヤマさんとダースコは女子の部屋に行って坂下や染谷達とトランプで盛り上がってしまい佐島達の嫉妬を買ったり、そんなふうニヤッという間に時間が過ぎていったのだが、十二時に吉田を先頭にボツやその他の先生が一斉に見回りを開始し逃げ遅れたドジなやつらが十名ほど先生の部屋で正座させられたことによって、ようやくハイな状態からみんな覚めてそれぞれの部屋に戻り、すると一人また一人と寝息を立てはじめ、そろそろ僕達の修学旅行も終わりに近づきつつあるのだった。
けれど僕はなかなか寝つかれなかった。だから真っ黒な天井を見つめていた。旅館の枕は我が家の枕と違い小さく堅かったが、それが妙に気持ちよかった。
頭の中でいろいろなことが浮かんでは消えていった。なんかすごく落ちつかない気分だった。修学旅行、楽しかった。染谷達と一緒にトランプすることもできた。染谷も楽しそうだったし、いつもは冷静な坂下も楽しそうだった。ヤマさんもジャイアント馬場顔を目一杯ほころばせていたし、ダースコも今日はスケベそうな笑いではなく、かわいらしい、心底楽しそうな笑顔を浮かべていた。
M・Sさんのことを思い出していた。彼女が果たしてこの学校の生徒かそうでないのか、染谷なのかそうでないのか、なんてことは今日はなぜかどうでもいい、という気分だった。この、どこかムズムズした少し苦しくてけれど少し甘酸っぱい気分を謎のM・Sさんも今どこかで僕と同じように胸に抱いて修学旅行最後の夜を迎えていれば、もうそれで何もいうことはない、と思った。
誰かがいびきをたてていた。とても幸せそうないびきだった。誰かが寝言を言っていた。とても幸せそうな寝言だった。
これがたぶん僕の15なのだと思った。バンドを夢見て、女の子に憧れ、将来に一抹の不安を感じ、けれどなぜか甘酸っぱい、僕の15。
蕪谷の顔が浮かんだ。あいつは修学旅行にも来ないで、学校にも来ないで、ひたすらドラムを叩いている。川を見つめている。道を捜している。僕の脳裏に浮かぶ彼はいつもひとりだった。あいつはあいつなりに、15を過ごしている。たったひとりの15を。
そういえば彼は、怖い、と言った。その時その意味がよくわからなかったけれど、今はなんとなく理解できそうだった。その、怖い、といった意味が。なんとなく。
そおっと起き出すとわずかな光を頼りに入り口へと向かった。みんな素晴らしい寝相をしているので、頭を踏まないように歩くのがとても難しかった。
ようやく入り口にたどり着くと引き戸を開け、廊下に出た。非常灯の真っ白な明かりに放り出された僕の眼は一瞬焦点を失い、次の瞬間、視野がぱあっと広がり、すると廊下に坂下真理が立っていた。
僕と坂下は四階と五階を結ぶ階段の途中に並んで腰を降ろしている。
すべての部屋が寝静まっていた。廊下も階段も寝静まっていた。旅館全体がみずすましのように静まり返っていた。かすかにジジ、という音が聞こえたと思ったら非常灯が瞬く音だった。
「なかなか寝つかれなくて」坂下が言った。
坂下は赤いジャージの膝を抱えて座っていた。表情はちょっと強ばっていた。
久しぶりに、本当に久しぶりに僕は坂下と二人だけになったような気がした。小さい頃は二人だけでよく遊んだのに、気がついたら彼女はいつしかただの隣に住む同級生になっていた。
僕はもう一度坂下を見た。いつもの冷静で知的で意思の強い、イメージそのままの横顔だった。きれいだと思った。坂下、いつのまにこんなにきれいになったのだろう、と思った。そう思った自分に少し驚いた。これまで周囲の男子が坂下、美人だなあ、とウワサしててもどうもピンとこなかったのだが、今日はなぜか素直に納得できた。
「俺も寝つかれなくてよ」僕も同じことを言った。
「修学旅行、楽しかったね」と坂下が言った
「おう、楽しかったな」と僕は答えた。
ジジっという音がした。非常灯の音だった。
「ねえ」としばらくしてから坂下がまた口を開いた。「こういうのって久しぶりだね」
坂下も僕と同じことを考えていたんだ。
「昔はけっこうふたりっきりで遊んだのにね」
「おう、そうだったな」
「あの頃、楽しかったよね」坂下がはじめて笑った。「岸田君って、女の子の遊び、好きだったんだよね」
「そう、だったかな?」
「そうだよ、特に好きだったのがリカちゃんごっこ。よく自分からリカちゃんハウス引っ張り出して私にやろう、やろう、ってせがんだんだよ」
「そう、だったかな?」
よく覚えている、と思った。こんなことはヤマさんやダースコには絶対知られたくない。
「修学旅行、終わっちゃうね」坂下はそう言うと全身の力を一気に抜いて、あーあ、と大きな溜め息をついた。こんなに無防備な坂下を見るのははじめてだった。
「おまえが溜め息をつくなんて、めずらしいな」だから僕はそう言った。「いいか、溜め息は命を削るかんなかな、って言葉があるんだぞ」
「溜め息は命を削るかんなかな?」
真理はちょっと意外そうに僕の顔を覗き込むと言った。
「へえ、なんかすごく良い言葉だね」
「そっか?」
「うん、すごく良い。沁みる」
「そっか? 沁みるか?」
「うんうん、すごく沁みる」
坂下が大げさにうなずく。「溜め息は命を削るかんなかな。いいな、すごくいい。岸田君って教養あるね」
僕はちょっと笑った。が、内心は得意満面である。なんたって学年一番の女子に教養がある、とほめられたのだ。でもそんなわけでこの言葉が母親からの受け売りだ、なんてことは口が裂けても言えなくなってしまったが。
もう一度僕は笑って、だから坂下も笑って、それでようやく僕と坂下の周りの空気がふんわかしだした。
「だから真理に溜め息は似合わない」
僕は自分の感想をもう一度口にした。
「そっか。溜め息って私に似合わないか」
坂下はちょっと気落ちした声で言った。
「ああ、似合わない」
「じゃあ私に似合うのって、何?」
「そうだな」僕は少し考えて言った。「やっぱ、真理に似合うのは参考書かな」
僕の答えに坂下は明らかに落ち込んだようだった。
「そうなんだ。やっぱり私ってそういうイメージか」
声があまりに沈んでいたので、慌てて「いや、というより真理は頭いいってこと。だから」とつけ加えた。
「ううん、たぶんみんなそう見てるのよ。私のこと」
「でもいいだろ。ダースコみたいにエロ本がお似合いだっていわれるより」
「ね? 美保ってどんなイメージ?」
「美保? 染谷さんのことか?」なんでここに染谷の名前が出てくるんだ、と少しドキっとしながらも染谷の可憐な笑顔を思い浮かべた。
「そう、美保ってどんなイメージ? 岸田君から見て」
さてなんていったらよいだろう? 天使とか女神とかいうのもなんか恥ずかしいし、けれどその他に適当な表現は僕の貧弱な辞書にはない。だからこう言った。
「女の子」
すると坂下はまたまた大きな溜め息をついた。
「私は参考書で、美保は女の子かあ」
しばらく会話が途切れた。水の底のような旅館だった。
「いいな」坂下がまたつぶやいた。
「なにが?」
「いや、男の子って、いいなって思う」
「なんで?」
「友達がいい」
「どういうこと?」
「だから、たぶん岸田君とヤマさんって一生つき合っていくと思う」
僕はうなずいた。
「ダースコさんもそうだ、と思う」
僕はまたまたうなずいた。
「蕪谷君、とは、まだよくわからないけれど、でも大切な友達のひとりになるような気がする。岸田君にとっての」
今度はちょっと迷った後、とりあえずうなずいた。
「そういうのが、いいって思う」
「真理と染谷だってそうだろ?」僕は訊いた。
坂下はわずかに首を振って、
「女の子って意外と難しいよ、いろいろな意味で」と言った。
「でもね、私、美保のこと、好き。だってあんな完璧な女の子、いないもん」
僕はうなずいた。
「美保は全然裏表、ないの。あのまんま。やさしいし、気がつくし、かわいいし、頭いいし。男の子に人気あるの、すごくわかる。あんな子をお嫁さんにしたら最高だと思う。ね、そうでしょ? 岸田君も好きでしょ? 美保のこと」
急にそう振られてもなんと答えたらよいかわからない。とりあえず「まあ、別にぃ」とお茶を濁した。
「ウソばっかし。でも知ってる? 岸田君ってけっこう女子にモてるんだよ」
なに? モてるって? 俺が?
「ウソつくなって」口ではそう否定しても、僕の顔はすでに自然とふにゃふにゃし始めている。
「でもなあ、真理、おまえのこと美人だ、っていう男子もけっこういるんだぞ」お返しとして僕はそう言った。
「岸田君はそう思わないでしょ」
「いや、そんなこと、ない」
「まあそれはともかく、もうすぐ受験じゃない。勉強、大変になるし、高校入れば入ったでみんなバラバラになっちゃうし、なんかつまんないね」
「その前に学校祭があるぞ。バンド、成功させなくっちゃな」
「そうだね、バンド、あるね。それはすっごく楽しみ。誘ってくれてありがとう」
「いやいや。入ってくれてありがとう」
「あと五年で私達ハタチだね」
「そう、だな」
「1980年」
「そう、だな」
「どんなになってるかな?」
「どうだろうな。真理も俺も、たぶん大学生じゃねえか」
「なるほど、じゃあ三十の時は」
「1990年」
「どうなっているかな?」
「ふたりとも結婚してるんじゃねえか」
「そうか。結婚してるか。じゃあ四十の時は」
「西暦2000年」
「すごいね、なんか」
「そうだな。すごいな」
「なに、やってるかな?」
「たぶん、ただのオジサン、オバサンになってるよ」
「ふーん、そうか。ただのオジサン、オバサン、か」
「西暦2000年の社会ってどんなかな?」
「今とあんまり変わらないんじゃねえか」
「そう? あんまり変わらない?」
「どうだろうな? よくわからないな」
「いい社会になっているといいね」
「そりゃ、ま、いい社会にこしたことはないけど。でも真理、なんでそんなこと訊くんだ?」
けれど坂下は僕の質問には答えず逆にこう訊いてきた。
「岸田君の好きな曲ってなに?」
好きな曲? 好きな曲っていったって、ありすぎてなかなか一つに絞れるものじゃない。ポール・マッカートニーとウイングスの『マイ・ラブ』もいいし、エルトン・ジョンの『ダニエル』だっていい。リンダ・ロンシュタットもよければエリック・クラプトンだって素晴らしい。スリードックナイトも捨てがたいしアメリカだって。ひとつってのはどうも…なんてうんうん考えていると坂下が瞳を輝かせて言った。
「私、知ってるよ。ジョン・レノンの『イマジン』でしょ」
「えっ?」
「中学二年の時の文集に書いてあったよ。僕の一番好きな曲はジョン・レノンの『イマジン』です、って」
ああ、そうだった、そういえばそんなこと、書いたっけ。
ハッと閃くものがあった。ということは謎のM・Sさんってやっぱりうちの学校の生徒、つまり、美保、染谷なの、か?
なんて僕が突如自分の世界に入り込んでいると、そんな気配に気づいたふうもなく坂下はとても楽しそうに言った。
「私の大好きな曲は、なんだと思う?」
ここでつい『受験生ブルース』と言いたい衝動に駆られたのだが、それを言ってしまうとたぶん一生真理は僕と話をしてくれないと確信したので、あいまいに首を振った。
「や、わかんないな」
「私のね、一番好きな曲はね、『イエスタディ・ワンス・モア』。カーペンターズの」
「イエスタディ・ワンス・モアか」
「ありがちでしょ」
「いや。俺も好きだ。あの歌」
「いいよね。歌詞がいいんだ。知ってる? 岸田君、『イエスタディ・ワンス・モア』の歌詞?」
僕は首を振った。
「要はね、いろいろな恋をしたりいろいろな経験をしたりしてきた大人の女の人が、ふとラジオをつけると若い頃よく聴いたポップソングが流れてくるの。すると若い頃のとっても楽しい思い出や初恋の思い出なんかがばあっと頭に蘇って、胸が一杯になってなんかとっても泣きたい気分になってくるの。そんな歌なの」
「へえ、よく知ってるな」
「私、好きな歌の歌詞は全部ノートに書き写してあるんだ。英語の歌だったら全部訳してある。だから」
さすが、旅人南中学一番の優等生は違う、と僕がいたく感心していると、坂下はこんなことを言い出した。
「今日眠れなかったのは、いつかは私達も歳を取って死んでいくんだなあって、思ったからなの」
「歳を取って死んでいく?」
「そう、歳を取って死んでいく」
はっきり言えば僕は坂下の気持ちがわからなかった。なんで今、こんなに楽しい日の夜にそんなことを考えるのか、まったくもってわからなかった。
「岸田君は自分が死ぬ時のことって考えたこと、ある?」
「ない」即答した。
「私はあるよ。どんな病気でいつ死ぬか、ってことじゃなくて、私が死ぬ時、誰がそばにいるかってこと。誰が私の死を悲しんでくれるのか、ってこと。私はこの世の中にどんなものを残しているかってこと。満足して死んでいくのか、不満だらけで死んでいくのかってこと。そんなことをたまに考える」
「真理。おまえ、俺と同じ15歳だよな?」
「うん」
「15歳で死ぬこと考えるのって、ちょっとばかし、ヘンじゃないか」
「そうかも知れないね。でも15歳だからこそ考えるってことも言えるんじゃないかなあ」
「へえ、そんなもんかいな」
僕はまた坂下の横顔を見た。やっぱりきれいな横顔だった。けれどどこか悲しそうな横顔だった。誰かに似ていると思った。すると坂下がまた口を開いた。
「怖いんだ」
「怖い?」
「そう。怖いんだ。すごく」
なにが? と訊こうとしてやめた。坂下の横顔がその問いを拒絶しているように思えたからだった。その代わり坂下が誰に似ているかがわかった。蕪谷だった。川を眺めていた蕪谷の横顔と、今の坂下の横顔は、なぜか似ていた。
「岸田君」
僕が黙っていると坂下が僕を真正面から見た。笑顔が戻っていた。
「ごめん、変なこと話して。でも今日はうれしかったな。岸田君とこうやって話せて」
「おう。俺もうれしかった」僕も素直に自分の気持ちを言葉にした。
「今こうして、この京都の旅館で、深夜に、岸田君とこうやってふたりで話したことを西暦二〇〇〇年まで覚えているかな? どお? 岸田君は覚えていると思う?」
「どうだろうな。俺は忘れっぽいからな」
すると坂下は、僕のことをじっと見つめて、ひとつ強くうなずくと言った。
「私は覚えてる。絶対に。15歳のこの夜は、死ぬまで忘れない」
僕はなんと答えてよいかわからなかった。坂下が何を忘れないと言ってるのか、それがよくわからなかった。僕と今こうやって話していることを忘れない、と言ってるのか、話している内容を忘れない、と言っているのか、今の気持ちを忘れない、と言ってるのか。
坂下はどこか遠くを見ていた。その目は澄んでいた。澄みきっていて怖いくらいだった。また怖い、だった。するとなんとなく坂下の気持ちがわかってきた。坂下は、たぶん、さっき僕が感じていた、そして今も実は感じている、甘酸っぱい気持ち、それをたぶん坂下も感じていて、そのことを忘れない、と言っていることを。そのことを忘れてしまうことが怖い、と言っていることを。
僕も忘れないだろう。この夜を。坂下と二人で、もう二度と訪れることはないであろう京都のこのうらぶれた旅館の階段に並んで座って、たった二人で過ごしたこの夜のことを。口には出さなかったが、でも確かに僕はそう思ったのだった。
WEB/STORY「哀しき70's Kids」ch.8 「バンドが転がり始めた。蕪谷が、オレたちの仲間になったんだ」 夏休みになった。蕪谷は一度も登校してこなかった。僕[…]