風街インサイドエッセイ 中学受験とエラリー・クイーン
文学賞選考委員によるインサイドエッセイ
昭和の港区=風街で生まれ育った筆者による港区ストーリー
出会いと別れのストーリー
中学受験とエラリー・クイーン
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5年2組からは4人が中学受験に突入した。
越境通学していた中村くん、団地に住んでいた西村くん(通称ニシコ)、その団地の入り口にあるお寺の娘、鈴木さん(通称クニコ)、そして僕。
とはいえ4人。全校でも20人ぐらいか。
昭和真っ只中。
僕の通っていた区立小は教育ママの間ではとりあえず中学受験に有利な学校とされていたが、
そんな受験御用達小でも、実はほとんどの子が地元公立中に行った牧歌的な時代の話である。
中村くんは、なぜか知らないが、当初僕を極端にライバル視していて、図書室で僕が『813の謎』を読んでいるといつの間にか隣にいて、
「ふーん、まだそんなの読んでるんだ」
と言ってきたりする。
「まだ」と「そんなの」に毒を感じて、
「じゃあ、おまえは何、読んでるんだよ」
と突っかかると、
「ボク? ボクは、エラリー・クイーンかな。今は。知ってる? エラリー・クイーン」
と返してくる。
「知ってるわ。そんなの、知ってて当然だろ」
「ふーん。じゃあ、キミは何読んだの? やっぱりYの悲劇? それともX?」
「オレ? オレは、いや、そう。そうそう。オレは、Wだよ。ダブル。Wの悲劇」
中村くんは、ちょっと目を大きくして、でもすぐ口元に冷笑を浮かべた。
「へえ、Wの悲劇ねえ、あったっけ。そんなの。エラリー・クイーンに」
夏樹静子さんが名作『Wの悲劇』を上梓する遥か以前の話である。
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ニシコは中村くんとちがって小さい頃から遊び仲間だった。
僕とニシコはいつもクニコをからかっていた。
クニコは学級委員長で、正義感に溢れ、弱い子には優しく、成績は抜群で、まさに正統派ニッポンの優等生だった。
難をいえばちょっと気が強いところで、例えば、僕やニシコが掃除の時間、ふざけっこをしていると、
「もう! ちゃんと掃除やってよ!」
と文字どおり箒をもって追いかけてくる。もちろん正義はクニコにあるのだが。
僕たちはクニコのお寺の隣の空き地でよく野球をしたのだが、
飽きるとクニコの家から勝手にボールを取り出してドッジボールを始めたりする。
するとクニコが窓から顔を出して、
「借りるなら、ちゃんと言って!」
と正論を述べ、僕とニシコは、
「わ、こわー、オトコ女」
と憎まれ口を叩き、余計怒らせたりする。
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ところで、知らなかったのだが受験する子はまず進学塾に受からなければいけないらしい。
僕は、日本進学教室(日進)を受けて『男子組』に受かった。
嬉しさのあまり次の日、さっそく中村くんにその話をすると、中村くんはなぜか憐むように僕を見た。
「ボクも日進だけど。でも『国立組』だけど。月報にもよく名前が出るから。
それから『四谷』もかけ持ちしてるから」
あとでわかったのだが、『四谷』とは、当然『四谷大塚』で、
『日進』で成績のよい子は国立組で、その他大勢が男子組だった。
成績優秀者の名が載る『月報』に僕の名前は当然一度も載ったことはなく、
だから『月報』はもらった日の帰り、必ず地下鉄のごみ箱に丸めて捨てた。
それでも同じ目標があるからか、けっこうみんな仲良くなり、
学校帰り、クニコのお寺のお堂に集まって勉強するようになった。
僕はクニコに『応用自在』の算数を教わったり、
中村くんとニシコは抜群に頭がよかったから、
二人で「鶴亀算」の超難問に挑んだりするようになった。
「みんな一緒に合格しような」と誓い合ったりもして、
そのとき、僕らは確かに仲間で同志だった、と言えると思う。
まだ、たったの小学6年生だったけれど。
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でも結果を先に言うと、僕は中学を受験しなかった。
6年の夏休みに父が死んだからだ。
母の実家がある、東京から遠く離れた地方に転校する日、ニシコが肩を組んできた。
「うちは金持ちじゃないから塾に行けるおまえが、実は羨ましかったんだ。
でも家ではけっこう勉強してる。
だから俺、おまえの分まで頑張るから」
そういえばあの頃、友情の証としてやたらと肩を組んだものだった。
中村くんからは『Yの悲劇』をもらった。餞別のつもりだったのだろう。
ただクニコとは何を話すでもなく別れた。
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その日以来、3人の誰とも会っていない。
それでもニシコについては、大学の附属中に受かったことまでは知っている。
何度か文通したからだ。
中村くんはたぶん御三家のどこかに落ち着いた、と、やはりニシコの手紙に書いてあった。
いつの間にか、ニシコとも文通しなくなった。
クニコがどうしたか、は、知らない。
ニシコの手紙には書いてなかったからだ。
僕たちはすっかり大人になり、中学受験はすでに遥か遠くの思い出だった。
とはいえ、受験しないことが決まって『応用自在』を本棚の奥にしまったときの一抹の寂しさと、
実はけっこうほっとした気持ちと、
そしてもうひとつ、
転校の日、一瞬目が合ったクニコの、
戸惑ったような、
でも何かを伝えたいような眼差しを、
僕は、何十年経っても、
まだはっきり覚えている。
初出 (「児童心理」2017年2月号 臨時増刊 金子書房 )